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❖誰のためのSDGs?❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2021年11月14日)

(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)

飢餓に苦しんでいるのは人間だけじゃない。奴もそうだった。奴は夏ならば危険すぎていないだろう場所で獲物をさがしていた。マンション入口のレンガ階段の上。見晴らしが良すぎるし、隠れる場所もない非常に危険な所である。しかし「背に腹はかえられぬ」のだろう。見晴らしが良く危険だが明るくて、レンガが温かいこの場所に、秋の寒さを凌ごうとする虫たちも集まるので、それを狙って奴は出てきたのだろう。だが残念ながら、一層寒さが増していく東京で、夜に虫を見つけるのは難しい。クモは多少いるが、奴らは空を支配できるのでなかなか手が出せない。私は奴を一時的に保護することにした。だが奴は基本的に生きた虫しか食べないし、エサの栄養バランスが悪いとすぐにカルシウム不足で「くる病」にかかり絶命に向かってしまうから飼育が難しい。排泄の頻度は高く、匂いも強いため、飼育環境の掃除も楽ではない。だから、奴の越冬の責任は持てないが、少し栄養を与えようと考えた。奴が置かれている厳しい環境について考えるとき、SDGsというのはあくまでも人間中心の視点なんだろうと改めて気づいた。生態系全体の持続可能性を真剣に考えるならば、例えば排出量を抑えるとかでは不十分。自分の視界からプラスチックゴミが見えなくなるでは問題は全く変わっていないかもしれない。トイレを行き渡らせることを否定するつもりはないし、大切なことだと思うが、行き渡らせることは自然界への人為の浸食を進めることであって、生態系全体の持続可能性に向き合うならば、人為的トイレの削減が正しいのかもしれない。まあ、上下水道やガス管を地中に張り巡らせることを、木々が根を地中に広げることと同様に捉えるならば、人間も植物も同じことをしているように見える。植物の根の拡大は人間の手によって簡単に抑制され排除もされる。しかし人間の根の拡大は、植物が反撃のように破壊することはあってもそれは稀で、人間自身の手によらねば抑制も排除もされない。さらには人間の根は放置されても自然には還らない厄介物である。そんな状況を見かねて、抑制や排除の審判を神が下すことはある。だがその地震や洪水も頻発に起こるわけではない。人間がこうして順調に人口を増やしている時点で、循環を前提にした持続可能性ではないかもしれないという思いが強くなった。人間の生き方や在り方に求められるのは、今の枠組みを前提にしつつ様々な量を抑える形ではなく、根本的な枠組みの見直しなのかもしれない。電気なし、プラスチックなし、ガスなしなど、無人島生活みたいなところから組み立て直す必要がある気がしてきた。最近、ナスDとか、あばれる君とか、無人島生活のバラエティを見かけるが、あれは単なるテレビショーではなく、これからの人間の生き方や在り方のヒントかもしれない。一時的に保護した奴は、数日、我が家で数匹のクモやコオロギ(クモは部屋に偶然現れた、コオロギは現在同居中のヒキガエル用に近所のペットショップで購入していたものをお裾分け)を食べていただき、暖かめの夜にリリースとなった。奴が今年度は最後に出会うヤモリだろう。

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