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❖偽責任(ニセキニン)❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2021年11月11日)

(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)

誰か「責任」という言葉の重さを測る道具を開発してはくれないか。この言葉の軽さを痛感させられる出来事が世の中には溢れている気がしてならない。私は多分、無責任なタイプに属するが、それを自覚しているが故に、生半可な気持ちで「責任」という言葉を使わないように努めている。それにしても、メディアを通して伝えられる「責任に対する冒涜」のごとき、発言や行動の多いこと。怒りならばまだ良いかもしれない。納得できないから、主権者として、または納税者として、何かメッセージを発信したいとか、何かのアクションをとりたいとか、きちんと自分ごとと捉えている。しかし、怒りを通り越して、どうせ言ったって無駄だとか、どうせ行動したって無駄だと、諦めになってしまうと、決して許したわけでもないのに、無関心が許容や白紙委任と変わらない結果を生み出してしまう。「責任をとる」というのは一体なんだろう。何かが起こったら、その立場をすぐに辞すれば責任をとったことになるというのは短絡的である。立場を辞したことで、批判の矢面に立たなくて済むから好都合というならば、それまでの立場の恩恵を継続して受けられなくなったとしても、トータルで辞する人物にとって得にも利にもなってしまうからである。かと言って、あれこれ理由をつけて、その立場に居座るのも違う。批判を受けつつ、その立場での職責を全うしている態度かというと、内心は違う可能性がある。辞めてしまうと受け取れなくなる立場の恩恵がどうしても惜しくて、しがみついているだけかもしれない。それでは責任を果たすことが主目的ではなく、表面的に「責任」という言葉を利用しているだけであり、その言葉の中は空洞。主目的は立場に留まることでしかない。「責任」という大義名分さえ示せば、問題を起こした後に自分がとった行動は正当化される。そんな便利なアイテムに成り下がっている。「責任」と書いて実は「リセット」と読む。世間の人には「責任」という額面どおりには残念ながら見えないし、読めないのに、その言葉を発した本人だけは、どうやっても「責任」とは読めないその状況を、妄信か自覚か、とにかく読めることにしてしまって、他者の意見や解釈を挟む余地を残そうとしない。もしかしたら、音が同じ別の言葉と勘違いして使っているのではないか。同じ「セキニン」という音でも、「責任」ではなく「斥任」ということで、任されたものを斥(しりぞ)けるというつもりで「セキニン」と発しているのならばその通りである。しかし、後者の「セキニン」として発言している人などいないだろう。そのような見せかけの責任は、偽りの責任。私はそれを「偽責任(ニセキニン)」と名付けている。それは責任を持たないことを自覚する「無責任(ムセキニン)」より罪深い。

#偽責任 #ニセキニン

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