太陽とハードコア 【エッセイ】
今日で八月が終わる。夕方五時を過ぎれば空気の中には段々と秋が混じり始めたり、日中に太陽が顔を覗かせて気温が上昇しても、盛り上がり終わった会話にまた火を点けようと必死になっている奴みたいな虚しさを感じたりもする。
毎年のことだけど否が応でも夏は終わり、季節は繰り返し訪れる為に再び旅に出る。
取り残された者達だけがその後姿を眺め、郷愁に浸ったりする。
こんな時期に毎年聴いている音楽がある。
ブラッドサースティ・ブッチャーズという北海道のバンドの「7月」という曲だ。
和音ベースとギターの絡みから始まるこの曲のオープニングはまさに夏の暑さ、怠さを上手い具合に表現している。
今はイントロが短い曲が流行っているみたいだけれど、この曲のイントロは1分40秒にもなる。けれど、その1分40秒が聴覚を通し、現実を、記憶を、夏の中へと連れて行ってくれるのだ。
なんて、ここまでスカした音楽雑誌みたいな書き方でお送りさせて頂きましたが、どうも、いつもの大枝です。
ブッチャーズを知らない方はナンバガを思い出してみて下さい。ある楽曲の歌詞に「吉村秀樹」って出て来ますが、あの吉村秀樹こそがブッチャーズのギターボーカルこと、吉村氏なのです。
なんなら田渕ひさ子がナンバガ後に加入したバンドがブッチャーズであり、もっとなんなら田渕ひさ子の旦那といえば吉村秀樹なのです。
(あのリアル・ジャイアンみたいな風貌の人こそ吉村秀樹です)
僕がブッチャーズを知ったキカッケはナンバーガールがカバーした「プールサイド」からだった。
カバーはただただ、ひたすら透明で美しい水の音の世界だった。あんまり美し過ぎて、言葉を入れ込む余裕なんてないほどだった。
しかし、原曲を聴いた瞬間に僕は思わずひっくり返りそうになった。
想像の二十倍、歌がヘタクソだったのである。(誉め言葉です)
けれど、その歌声の中に込められた言葉達は決して前へ出ようとはせず、とつとつと、淡々と夏を描いているように感じた。
楽曲に関して吉村氏が「主役はベースだから」と言っていたのを観たことがあったが、それくらい意図的に歌が前へ出ないバンドなのだ。
淡々と歌い、時にはがなったりもする。基本的にロックなのに、勢いというものがなかった。もっとこう、どっしりとしていて、なのに軽くて、それでいて冷たさもあった。女性的だとも思った。だから、吉村氏の歌は下手クソなんだけど世間一般で言う「音痴」というものではないのだと感じていた。
それは言葉の持つ力もあったのかなぁと僕は思ったりしている。
ちなみに吉村氏は2013年5月に急性心不全により亡くなっている。
プールサイドより歌詞を引用させて頂いた。
この歌詞を読みながら、当時の僕はSHOCK!のあまり、扇風機に顔面を向けたままボヘーッとしてしまった。
バンドマンとして作詞作曲をしていたこともあり、こんな歌詞を書いてみたいとも思った。
見た目はジャイアン、そして行動もジャイアンじみていた吉村氏の書く言葉達はどれもこれも繊細で臆病で、そして誰よりも優しかった。
こういうのをきっと、文学っていうのかもしれない。
そして僕が今回テーマとした「7月」だが、1996年発売の「kocorono」という超名盤(オルタナテストに出ます)に収録された一曲である。
このアルバムそのものが一年間を表現しているのだけれど、曲の始まりは2月で、終わりは12月という曲で構成されている。
あれ?1月は?というと、「当時からコンセプトは2月から12月だった」なんてことを言っているのをインタビューの記事で見たことがある。
実は1月という曲もちゃんと存在し、後年発売されたリマスター版には収録されている。
で、この7月がとんでもなく美しい楽曲で、それは何年経っても色褪せることなく心にずっと残されたままなのだ。
実はちゃんと音源を聴いたのは三十歳も過ぎた頃なので、青春時代がどうのこうの、というのは関係ない。なのに、残っている。
僕が長年住んでいた今は無き実家のあった街というのは埼玉の片田舎で、夏になると多くのキャンプ客や水遊び客がやって来るだけの、大きな川が流れているだけで本当に何も取り柄のない街だった。
何もないけど、嫌いではなかった。
街中へ行けば幼少期の苦い思い出が蘇るし、寂れて行く街角に未来の光が抗いようもなく消えて行くのも感じたりもした。
そんな街の中を一人で歩いている時、図書館と自宅を往復するだけの日常の中に、ブッチャーズの「7月」が僕の耳の奥にはいつも届いていた。
とある夏の一日を書いたであろう歌詞の中で、誰かが愛し合ったり、また、誰かにエールを送ったり、究極のドラマが起こる訳ではない。むしろ淡々と、夏の景色が水と共に流れて行くだけ。
それなのに、何故か無性に泣けて仕方なかった。
「7月」の歌詞全文が以下になる。
一行目の「ここにあるだけの夢を川で遊ばせ」なんて表現、普段ゲスで粗暴な文ばかり書いている僕にはやっぱり出て来ないなぁなんて思ってしまう。
音と共に込められたこの曲の中にあるのは間違いなく「7月」であろうし、もっと言えばすべての「夏」が込められているなぁと聴くたびに感じるのだ。
それは誰かにとっての「夏」ではなく、きっと誰にとっても「ココロノ」中にある夏なんじゃないだろうか。
振り返った時にもう取り返せない場所にいる、または在る、そんな夏のような気がしている。
聴かせるのではなく、想わせることが出来るからこそ、いつまで経っても色褪せずに「7月」は今でも僕の耳の奥に鳴り響いているのだろうなぁと、思ったりしたのです。
甘い歌声で過ぎ去った甘い生活なんか歌って、もう戻れないんだウーッ!と聴かせるのもそりゃあ流行るんでしょうが、僕にとっちゃ耳の中で耳カスとなって翌日にはもうポロリンチョと落ちて行ってしまう訳なんです。
なんでかな。これでも小さな頃は裸で光GENJIを踊り狂ったり、B'zのラブファントムを買って喜んだりしていたんですけどね。
もう何年も前の夏に、ひどい後悔をしたことがありました。
人に迷惑も掛けましたし、生き方を改めなければならなくなりました。
状況的にもうこれから先、自分はどうにもならないと思い、モグラのように明るい場所には出ずにひっそり生きなきゃなぁなんて思ってました。
そんな夏に、誰の言葉も届かなかったはずの毎日の中で耳から心の奥にまでしっかりと届いていたのは吉村氏がヘタクソな声で歌う「7月」だったのです。
夕暮れた川をぼんやり眺めながら、川の臭いの混ざった空気を吸いながら聴いていると、誰にも赦されなかった何かがそっと静かに赦されて行くような気分になっていったのです。
もちろん、顔を上げて目を開ければ何ら現実は変わっていませんでした。
けれど、不思議と、傍にある歌だなぁなんて、その時の自分は人様らしく感じたりしたのです。
そんな夏を越え、何度かの夏を過ぎ、今年は夏が終わることを実感しながら、噛み締めながら、また「7月」を聴いています。
人が変われるかどうかなんて、正直分かりません。
けれど、人がいつどう変わるかなんて、また分からないものだったりもします。
何の話かよく分からなくなってしまいましたが、とにかく良い曲だから聴いてみろっつー話です。
では、また。
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