ミューズの指先
DOーMOこんにちは。みなさん、ご機嫌いかがですか? え?
はぁ、庭を掘ったら巨神兵の頭が見えたと……それはそれは……。
まぁ定期的に不発弾が掘り起こされるくらいの日本ですから、土から巨神兵が出たり、金田のバイクが出たりしても何らおかしくはないので、どうか気落ちしないで前に進みましょう。
あーあー、マイクチェックチェック。こちら関東。フロム埼玉マッドシティ。yamada udon soul 草は食べ物。はい、本州の梅雨もそろそろ明けになる頃ですかね。濡れそぼる紫陽花が染まりきる前に晴れ間も段々と増えて参りました。
そんな中、炎天下で晴れやかな活動をしてらっしゃる画家さんを紹介、というか僕が皆さんに一方的に知って欲しいと思い、キーをカタカタさせ始めたって訳よ。
その画家さんとは「清世」さんというnoteでも活動・活躍している画家さんである。
お会いした事もなければ話した事もないのだけれど、大枝のたけちゃんがとても尊敬している画家さんなんです。
トップ画にも掲載させてもらったけど、僕の記事からイメージして描いたもらった絵がコチラ。
元記事は
この絵を描いてもらった時は余りに嬉しくて窒息死しそうになった上、僕の記事からこんな素晴らしい映像が生まれる事にただただ、驚嘆させられた。
そして最も驚いたのが、面倒臭がり&言葉足らずな僕が何の注文も伝えていないのにも関わらず、話の中で一番描いて欲しかったシーンをドンズバで描いてくれた事だった。
それは画力のみならず、清世さんの感性そのものがズバ抜けてる証だと感じた。
ここで、ガチョウがとてもプリチーで可愛いnolyさんの記事を引用させて頂く。
僕が初めて清世さんの描いた絵を見たのはnolyさんの記事がキッカケだったように思う。
静と動の入り混じったその絵を初めて見た時、僕は文字通り絶句した。
脳天に雷が落ち、手足が痺れるほどの衝撃を受けたのだ。持っていたアイコスがブーブー鳴り、気付いたら吸えなくなったいた。プチ禁煙成功である。
大昔、恥ずかしながら画家になりたかった僕が描きたかった絵がそこにあった。
沙村広明先生、押見修造先生、古屋兎丸先生など、漫画家でもあり個展も行う鉛筆画の達人の絵も確かに衝撃的だったのだけれど、清世さんの絵はより大きな衝撃を受けた。
鉛筆画とペン画を中心とした絵画に明け暮れていた中学時代、もしも同級生に清世さんが居たのなら僕はショックの余りゲー吐いて自分の首を自分で締めてこの世にグッバイ!アディオス!アシタマニアワナイナー!していたと思う。
そういう意味では同郷でなくて本当に良かった。
動を静が抑え込んでいるような、静を動が突き破ろうとしているような、そんな繊細で大胆なタッチの持ち主は一体どんな人なのだろうと僕はnolyさんからご紹介頂くまで声すら掛けられず、しばらくはストーカーのように投稿された絵達にジーッと見入っていた。
nolyさんがいなければ僕は清世絵画ストーカーになっていたに違いない。
で、清世さんはこんなきっと人だろう!と思って描いたイメージがこちら※僕の拙い絵でごめんちょ
年の功はおそらく45〜50。タタミ6畳のアトリエに引きこもり、右手に鉛筆、左手に一升瓶(酒)、作務衣姿でひたすら鉛筆画を描き続けている。野武士のような風貌で、基本無口。ボラ釣り等、好きな話になると死ぬほど食いつく。
これだ!!と思っていた。
そして、正解の清世さんがコチラ!
ズコーーーーーッ!!全然違うじゃねえかである。
そもそも性別すら違っていた。
はい、色んな所から投げられた石がぶつかる音が聞こえて来てます。あ、痛い!痛い!頭はヤーヨ!!
恐るべき推測力。これじゃあ僕が推理小説を書けないのは当然だ。基本、僕は頭が悪いのだ。
清世さんを無骨なオッサンだと思い込んでいた事は正式に謝罪させてもらったけど、とにかく!それくらい気迫のある、しかも軽やかでしなやかな作品を描く人だというのは知って欲しい。たけちゃん、真面目にお友達()のみんなに知って欲しいのである。
清世さんはインスタライブもやっていて、数回拝見させてもらった。僕は「木彫りの熊」をリクエストして描いてもらったのだけれど、まぁ早い早い!筆が早い!!
色んな方のリクエストに答えて初見で描いてくれるのだが、どんなリクエストも大抵2分ほどで描いてしまうのだ。
清世さんのnote、Twitterには他にも色々な作品が投稿されているんだけど、描かれているものを見ているうちに「この人が描いてるのは絵ではなくて心の機微だな」と、もっともらしい事を(偉そうに)感じた。
ただ絵を描くだけではなく、清世さんの描くのはその人の持つ色や滲み出る物、生き方や感性なんかを見て、切り取ってるんじゃないかと。
それはきっと描かれた本人でさえ気付かなった色だと思う。鏡よりももっとより色濃く、人となりを映す表現をやっているんだろうと。
それで、さらに知って欲しいのは清世さんは7月に入ってから路上で100人を描くという企画を現在進行形で行っている。
土日メインで、最初は7〜9月までの予定だったのが一気に7月中に100人を描くという企画に変わった。
物凄いエネルギー。グローのブーストモード(分かる人は少ないと思うけど)ばりのハイペースに切り替えたものの、現在54人(合ってる?)達成中なので今月中に100人を達成するのは旦那、間違ぇねえ!とあっしは睨んでいる。
物凄いバイタリティの持ち主だし、描いてもらった人達もきっと「嬉しい!」と思うから夢が目標になり、目標が現実になって行くんだろう。
これこそ想いが伝わっている証拠だ。
清世さんのページ、Twitterには路上で描かれた作品もあるので、是非見て頂きたい。言い方に語弊があると良くないけれど、清世さんは路上で似顔絵を描いている訳ではないんだと思う。
描いているのは顔じゃなくて、「あなた」を描いているから、描かれた人も似てるとか似てないとかで判断してる訳じゃない。自然とそうなる。
描かれた人が自分でさえ気付かなかった表情とか、雰囲気とか、まるで知らなかった自分に出会えるキッカケになっているのではないだろうか。
名古屋近辺、および中部地方にお住まいの方は是非チェックして清世さんに会いに行ってみては如何でしょうか。
ここに清世さんの絵を載せないのは無断掲載になってしまうのと、皆さんには直接清世さんを見て知って欲しいので是非noteのページ、Twitter、インスタなんかでチェックしてみて欲しいからだ。
ここまで読んでいて、あれ?ずいぶん大枝の野郎、肩入れしてんじゃない?と思った方がいたとしたら、大正解だと言っておく。
物凄く控えめに言って、僕は清世さんの大ファンだ。
あんな脳天ぶち割られるような経験は後にも先にも無いと思う。
「たまには素直になった方が将来、ガンのリスクも軽減されますよ」
と医者に言われた気がするので素直に認める。
清世さんは絵という舞台で、僕は小説という舞台で、それぞれ異なる表現を行なっているけれど、清世さんの活躍を見るたびに触発される自分がいる事も確かなのだ。
その絵を見た瞬間、いつか描いてみたかった夢の続きを見ているような、とても不思議な経験も味わえた。
芸術の神・ムーサ=ミューズはミュージックの語源でもある。
インターネット大学のウィキペディア教授が言っているので間違いない。
そのミューズがもしも人を愛したとするならば、きっとミューズは数ある人間の中で清世さんを選んだのだと僕は思っている。
その指先が悪戯に触れて、一人の人間にある才能を与える。
描かれた物は才能が生んだ努力の結果であって、ミューズが与えた物はきっとより多くの人達を幸せに導く為の才能だったのだろう。
芸術は何の為にあるのか。芸術とは誰の物なのか。
無論、権利は作者にある。
だが、表現とは何だろうか。
当たり前だが、舞台に必要なのは役者やその技術だけではない。
一番肝心な観客が無くては劇もままならないだろうし、そもそもの意味を成さない。
芸術によって誰かが微笑む事を願ったミューズは、その願いを込めた指先で一人の人間に触れた。
そして、その願いが梅雨も明け掛けた炎天下の路上で華を咲かせているのだ。
汗も搔くだろう。襲い掛かる夏に気が削がれる瞬間もあるだろう。人の目線の向かう先が気になり、時には強烈な孤独を感じるかもしれない。
本当にこれで良かったのだろうかと、迷いを感じる瞬間だって。
しかし、そこへやって来て声を掛ける人達がいる。
路上に沢山の華が咲く中で、一つの華を探して訪れる人達もいる。
その時、どんな想いで彼女が鉛筆を握り締めるのか。
どんな表情で顔を上げ、表現者の目に魂が宿るのか。
僕は描く人を書く人間として、この素晴らしい画家を尊敬している。
恥ずかしげもなく堂々とこんな事を言えてしまうのは、その素晴らしい感性に勇気をもらったからに他ならない。