自我論と狂気論に関する今後の学習と探究の見通し&神になりうるかもしれない人類ということに関して
ここでは敢えて自我を概念規定することはしないが、変化することを前提として敢えて言うならば自我とは定立されており反省するところのこの私のことである、としておこう。よって、現時点では精神分析の自我論のことは念頭におかない。
自我と狂気について考えている。狂気にある者であっても先の自我による病識をもって(或いは自我によるというのが大きな誤解か或いはレトリックのようになってしまっているのかもしれないが)病院に行くことはままある。そもそも素朴な考えである「この私」が「自分」を動かしているというのが大きな誤解かもしれない。というよりも、神経科学の入門をかじったことのある人間としてはそれの方が自然であるようにも感じる。しかし「反作用」ということも考えられる…。物的なるものから創発したところの心という活動態という創発系が物的なるところに反作用を及ぼしうるという、いわば上部構造(イデオロギー=イデアロゴス)のような反作用。すなわち、この路線をとると、例えば一例としてはカントの「未成年状態」からの脱却という議論にも賛同しうることになる。乳児期に刷り込まれたような大人像が実は成立しないから(これは真だと思う)といって、短絡的に「大人はいない」ということにはならない。すなわち、「度合い的に理性的な大人はいる」かもしれない。よって私は、人間の発達についても学究することとする。また当然、狂気と口だけで言っても話にならないので、神経科学や精神医学についても最低限学習の対象とする所存である。
仮説や「言うだけタダ」の議論であっても、見方を提供してくれる点では大いに意義があるので、あくまでも駆動にかけるだけのものとして程度のニュアンスで、しかし多くしっかりと、歴史的な自己論・自我論や狂気論についても学究を深めたい。
以上のことから、概ね「狂気と制作~」レポート以来の研究を引き継ぐ形となる。但しここに来て狂気論と神人の議論が結びつきを示してきたので(ヘルダーリン)、同時並行で神人の方も進める。というより、明らかに意志や自己という点で、この双方は、少なくとも神人の方の議論を進めるにあたっては、先の自我論&狂気論の方と関連せざるを得ない。
したがって、私はそのような方向性でしばらくやってみるつもりであるが、その報告は都度行うつもりであるから、お楽しみに。
2023年2月19日 田代剛士
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