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人生甘くないよ!たけし日本語学校奮闘記 第9話「初留学」

2003年9月1日、西アフリカベナン共和国で「たけし日本語学校」を開校しました。開校から今日まで、いろいろな事がありました。育った環境も違えば、年の差も15歳離れているベナン人と日本人の2人が、「たけし日本語学校」という1つの夢に向かって進む珍道中を数回にわけて書き進めたいと思います。
※この話はすべてノンフィクションです。

これまでのあらすじ

2000年から始めたベナン共和国で日本語学校をつくるプロジェクトは、紆余曲折を経て、2003年、ようやく開校までにこぎつけました。喜んだのもつかの間、ゾマホンさんとの約束で、僕は日本に残ることになります。そして派遣した日本語の先生が2か月足らずで、帰国するという事態が待っていました。万事休す・・・そんな中、僕の尊敬する同僚が1年間限定でベナンに行ってくれることになり、なんとか日本語学校は再開します。

ベナンで日本語を学んでどうするの?

日本語学校を開校しても、周囲からの声は厳しいものでした。
「日本はベナンを植民地にしたいんだ。」
「タレントの売名行為だ」
「自腹で日本語学校を作るなんて、あいつら2人は馬鹿じゃないのか。」
「日本語を勉強したところでなにするの?」
それは日本国内だけでなく、ベナン共和国内でもありました。

「ゾマホンさん、日本のために日本語学校をつくったのに、日本人から否定されるなんて、僕は日本人として申し訳ないと思っています。すみません。」

「山道さん、大丈夫です。人生、甘くないから。誰に何を言われても、私はやります。」

「ゾマホンさん、まずは結果を出さないとですね。日本に送る留学生を育てましょう。」

日本語学校1

留学の壁

日本の大学に留学するには主に2つのルートがあります。
それは国費留学と私費留学です。国費は日本政府が渡航費や学費を負担するもので、私費は自分のお金で留学するものです。

2003年当時はベナンに日本大使館がなく、国費は不可能でした。
ゾマホンさんも上智大学には私費で留学しています。私費のほうが、留学の可能性はありますが、ハードルは高いです。他の国の人と同じように受験をするのですが、日本語力が必要です。当時は、日本国内の日本語学校で2年間毎日勉強して、その後大学を受験するのが一般的でした。しかもほとんどがアジア人で漢字圏の人々でした。

費用面では、当時のベナン人の1年あたりの収入は約60,000円という時代でした。日本への渡航費に40万円、日本語学校の学費に年間100万円です。

「山道さん、ベナン人にとって日本に行くより、天国に行きやすいよ。
悪いことをしなければ天国に行けるけど、日本にはそう簡単に行けない。」
天国に行ったことがない僕にとって、その言葉は想像できませんでした。

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ゾマホンミラクル

そんなある日のこと、僕にゾマホンさんから興奮したような声で電話がかかってきました。

「山道さん、私の友人の大学教授が3ヵ月間であれば、受け入れてくれるかもしれません。」

「えっ?それは本当ですが?」

「いま学校側とかけあっているらしいです。」

それは立教女学院短期大学という学校でした。(残念ながらいま、その学校はありません)

留学の難しさはゾマホンさんが一番よく理解しています。ゾマホンさんは最短で留学という結果を出せる方法を探していました。

日本語学校ができた年になんと2名のベナン人女性が日本の大学に来ることが決定しました。まさにミラクルでした。

グローバリゼーション

立教女学院短期大学の特別留学生プログラムは決まりました。
僕たちはさっそく来日させるための日本のビザの手配と航空券の購入をはじめました。

「山道さん、ベナンに日本大使館がないから、コートジボワールにある日本大使館にいって、申請しないといけません。」

「山道さん、2人の女性は外国に行ったことがないので、コートジボワールに付き添いで1名つけます。」

「山道さん、ビザを申請した後、発行されるまでは10日間くらいはかかります。その間、コートジボワールに滞在しないといけません。ホテル代が必要です。」

矢継ぎ早にゾマホンさんからどんどん連絡がきます。一体、いくらかかるんだろう・・・・

そんな不安もありながら、2名のベナン人女性と付き添い1名はビザの申請のためにコートジボワールに行くことになりました。

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そこでまたトラブル発生。

当時、飛行機で日本に行くには、ベナン→フランス→日本という経路が主流でした。それが問題になりました。
日本人には必要ないのですが、ベナン人がフランスで飛行機を乗り換えるためには、フランスのビザが必要だということが発覚したのです。

「えっ?日本に行くために、フランスのビザがないといけないの?」

「山道さん、私も信じられないよ。でもこれがグローバル化です。しかもベナン人の社会階級によってはフランスのビザはそう簡単には出ません。」

(彼女たちのフランスのビザが出ないこともあり得る?そうなると日本に行けない???)

当時24歳の僕にとっては厳しい現実でした。僕は日本で生まれ育ったため、まったく想像もできない世界でした。

彼女たちがガッカリしている姿を想像しました。そうすると怒りがこみ上げてきました。

「何が世界平和だ、何が貧困をなくすだ、ふざけんじゃない、何がグローバル化だ、ふざけんな!」

とても悔しかった。日本人として24歳までのほほんとして過ごしてきていた自分が許せなかった・・・

「山道さん、ベナン人が日本に行くには、天国に行くより難しいよ。でもここであきらめたら何も変わらない。」

「ゾマホンさん、今回、どれだけお金がかかっても必ず2名の学生を絶対日本によびましょう。大学の先生のためにも、彼女たちのためにも」

いよいよ日本留学プロジェクトの戦いがはじまりました。(続く)

体験をとおしての気づき

・現実を受け止められなくなるので、先進国の優越感をもって現地の人に接してはいけない。


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