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怪談・カンボジアの夜
照屋さんが以前、仕事でカンボジアへ行ったときのこと。一週間の予定で、商談あり、カンボジアツアーありの、忙しいスケジュールだったが、ひとつだけおかしな経験をしたという。
バッタンバンというカンボジア西部の町のホテルに滞在したのだが、三日目の夜、深夜三時くらいのこと。前触れもなく照屋さんは目が覚めた。
誰かが歌っている。照屋さんはベッドから静かに起き上がった。
その声は若い男性で、カンボジアの言語であるクメール語で何か歌っている。結構近くだ。水滴の落ちる音も聞こえる。
その時照屋さんにははっきりわかった。
あの声はこの部屋の中、シャワールームで歌っている。
照屋さんはてっきり見ず知らずのカンボジア人が、部屋を間違えて、自分の部屋でシャワーを勝手に浴びていると思い、足尾をしのばせながらシャワー室へ向かった。
シャワールームは電気がつき、あきらかに肌色の影がスモークガラスの向こうに見えていた。男性の歌声も聴こえている。
その姿を見ていると、照屋さんは無性に腹が立ったという。
ここは俺が予約した部屋だ。シャワー供用だなんて聞いてない。勝手に入り込むなんて何事だ。ぶんのめしてやる。
腹が立った照屋さんは、相手を驚かせるために日本語で大声を出しながらドアを開けた。
「誰だよ! 俺の部屋だぞ!」
開けると、シャワーの中には誰もいなかった。電気こそついていたが、床には濡れた形跡もなかった。
「あれ?」
途端に照屋さんは寒気が身体中を駆け巡った。さっきの歌声は? スモークガラス越しに見たあの影は? 何度も確認したが、やはり誰もいなかった。
照屋さんは電気を消してすぐベッドに戻ったが、身体中がブルブル震え、布団から出ることが出来なかった。しばらくするとまた歌声が聴こえてきたが、どうすることも出来ず、朝までベッドから出ることが出来なかった。
朝になり、フロントにそのことを伝えてもらったが、あいにく満室だったので、部屋を変えてもらうことは出来なかった。
その代わり、フロントの女性から、何かお経のようなものがクメール語で書かれた二ドル札をもらった。
「ダイジョブ、ダイジョブ」と彼女はいった。
「これは?」
「守る。ダイジョブ。安心して」
一種のお守りだと言われたが、それから三日間、男性の幽霊は現れ、二ドル札のお守りは全く効かなかったという。
2日目の夜に、怖くなって外に出た。しかし繁華街のような場所には、明らかに売春目的の女性たちがたむろするバーばかりだった。
しばらく歩いていると、日本語を話す女性から声をかけられた。
「日本人。ファキファキ。遊びましょ。私、大阪のクラブにいたよ」
「ああ、大阪に? 話せるんなら助けてくれ。実は困ってる。ホテルの部屋に幽霊が出るんだ。あの、オバケ、ハウンテッド、ゴーストがいるんだ。わかる?」
彼はそういってまったく効かない二ドル札のお守りをポケットから出して見せた。
「ファック!」
彼女ははっきりした英語で吐き捨てるようにそういうと、次の瞬間、悲鳴を上げ、文字通り後ろに飛び上がった。そして通りの端まで走って逃げた。
「あれ、お守りのはずなのに」
照屋さんはそのままホテルまで歩き、繁華街とホテルの間の暗い道で二ドル札を取り出して、くしゃくしゃにして道端に捨てた。
そしてホテルに戻ると、なぜか新しい二ドル札がテーブルの上に載せてあった。サインペンで書かれた呪文もそのままだった。
くしゃくしゃにして捨てたはずだった。どういうことだ。
今でも旅行カバンの中にその二ドル札は入っているといい、照屋さんはなぜか捨てられないという。