「幸運なひと」

「どうせあたしは運の悪い女なのよ!」
半年ほどつきあった男と、つい最近別れたばかりのあたしは、同僚のユウコにさんざん愚痴をぶちまけて店を出た。ほんとうは飲み明かしたいと思うくらい気持ちが荒んでいたけれど、今日は早く帰りたいとユウコが言い出したからだ。
「ごめんねー。とことんつき合ってあげたいんだけど、今日、彼氏の誕生日なんだ。こっそりプレゼントあげようと思って準備してるの!あんたもいつまでも別れた男のこと引きずってないで、早く気持ち切り替えた方がいいよー!」
ユウコの慰めの言葉は、あたしの運の悪さを裏付けるだけだった。
「わたしタクシー拾うからここで。じゃね」
そう言ってユウコは手を振りながら国道の方に走り去っていった。

氷のように冷たい夜風があたしのほほを叩いていった、
ひとりきりになったあたしは、口を真一文字に結び、ずんずんと乱暴な足取りで駅のほうに向かった。
そしてふと、あたしは足を止めた。
どうしてか自分でもわからない。もしかしたら、ショーウインドウの奥からこぼれ出てくる柔らかな光に、気持ちを癒してくれるなにかを期待したのかもしれない。
その小さな店は、ネオン街の片隅にひっそりとうずくまっていた。
『幸運を呼ぶアンティーク』とだけ書かれた小さな木彫りの看板がキイキイと夜風に揺れている。
「今のあたしに本当の幸運を呼んでくれたら、今月のお給料を全部払ってもいいわ」
酔いも少し手伝って、あたしは聞こえよがしに憎まれ口を叩きながらお店のドアを開けていた。
こぢんまりとしたその店の内部は、暖かな琥珀色の光で満たされていた。
懐中時計、オルゴール、宝石箱、小物入れ、銀の食器、テディベアのぬいぐるみ、そして漏れてきた柔らかな光の正体だった年代もののテーブルランプ。
古びた建物の外観からは想像もつかないくらい上品な調度品やセンスのよいアンティークの小物たちが、飾り棚の上で肩を寄せ合っている。
どこかに香炉があるのだろう。ふうわりとかぐわしいお香の香りが漂ってきた。
勢い込んでドアを開けたあたしだったが、突然時間がゆっくり流れ始めたような錯覚を覚えた。

「ごめんください?」
「お客さんかい?こんな時間に珍しいね」
そう言いながら店の奥から姿を現したのは、背の低いしわくちゃの老婆だった。こんな夜のネオン街にもっとも似つかわしくないひと、それがあたしの率直な印象だった。
「おばあさん、お店のひと?」
「そうだよ。なにをお探しかね?」
「幸運を呼ぶアンティークを見せて欲しいんだけど」
「そこに並んでいる品物は、みんな幸運を呼ぶアンティークだよ」
老婆はそう言って、小さな眼鏡の奥からあたしの顔をじろりと見た。
「けれども、あんたには用なしだね。あんた幸運なひとだからね」
あたしは、一瞬なにを言われているのかわからなかった。だから、老婆の言ったことばをもう一度頭の中で繰り返すと、咳き込むように言った。
「あ、あたしが?」
「そう、あんただよ。気がついていなかったのかね」
老婆はそう言い、今度はにっこりと笑った。
額や頬に刻まれた深い皺。ごつごつと節くれだった指先。長年の苦労を絵に描いたようなその老婆は、けれど笑顔だけは、なんとも言えない暖かみを醸し出していた。

「あたしが幸運だって?じょ、冗談でしょう?おばあちゃん!」
「ほんとうさ。なんなら、あんたの運勢を観てあげようか」
「おばあさん、占い師でもやっているの?」
「まあ、まねごとみたいなものさね」
いけない、いけない。あたしは思った。だからあたしは運の悪い女なのだ。ここでうっかり乗せられてしまって、当たりもしない占いに、あとでたっぷりお金を取られて……。
「だいじょうぶ。それでお金を取ろうなんて、これっぽっちも思ってやしないよ」
老婆はあたしのこころを見透かしているかのようにそう言った。
「ほんとうにお金は取らないのね……」
「今日は店じまいしようと思ったところだったんだ。あんた運のいいひとだよ」
そう言うと老婆は、そばにあった机の引出しから、紫の布にくるまれた大きな水晶の玉を取り出した。
「うわ、水晶の玉なんて初めて見た!」
お店の暖かな雰囲気や、老婆のゆっくりと落ち着いた物言いに、さっきまでささくれ立っていたあたしのこころに、ぽっと小さな火が灯った。

部屋の中ほどに古びた樫の小さなテーブルが置かれ、その前にテーブルとは不釣合いなほど大きな皮のソファがあり、老婆はそこに座るように言った。
「そうだね。ええと、あんた、最近、なにかいやなことがあっただろう?」
「え?わかるの?どんなこと?」
「男だね。つきあっていた男となにかもめごとがあったね」
な、なんでわかるの?このおばあちゃん、もしかしたらほんとうになんでもわかるの?
「そして今日は、いらいらしていたんだ。少しお酒も飲んだ。この店の前をとおりかかったとき、『幸運を呼ぶアンティーク』の看板をみて、ほんとうにそんなものがあるなら見てみたいと思ったから店に入ってきたんだね」
老婆は水晶の玉に顔を向けたまま、すらすらとそう言った。
「おばあちゃん、ほんとにあたしのことがわかるの?そうよ。あたしほど運の悪い女はめったにいないと思ってる」
「じゃ、言ってごらん。どうしてそんな風に思うんだい?」
「え?どうして」
「これがわたしのやり方なのさ。お客さんが自分をどんな風に思っているか、それを訊いてから運勢を観るんだ。運なんてものはね、それを左右するものは本人の中にちゃあんと隠れているんだよ。とどのつまり、ね」
そう言って、老婆はあたしの顔を値踏みするようにじっと見つめた。
あたしは自分の過去を話し始めた。

あたしは、子供のころから運の悪い女の子だった。小学校から中学校にかけてのいちばん多感な時期は、父親の会社の都合で幾度となく転校を余儀なくされた。
そのたびにせっかく仲良くなった友だちとお別れしなければならなかった。
都会の高校に入学して、相変わらず地方を転々とする家族と離れる決心をしたときは、ひとり暮らしに慣れるまでにずいぶん大変な思いをした。いままでどれだけ家族の愛情に包まれて、何不自由なく暮らしてきたかということをいやというほど思い知らされた。
まわりのみんなは、恋に部活に明け暮れていたというのに、あたしだけ早く帰ってコンビニのバイトをしなければならなかった。もちろん彼氏なんかできやしなかった。
やっとの思いで合格した大学でも、やっぱり学費を納めるためのバイトが生活の中心になった。それなりに勉強はしたけれど、ほとんどの時間は、大学があった駅の近くの小さなオフィスでワープロ打ちや書類作りをする事務のバイト。みんなは、スキーだテニスだとキャンパスライフを楽しんでいたというのに。
「ふうん。おかしいねえ。この水晶の玉には、あんたが幸運なひとだってはっきり映っているのにねえ」
「ね、おばあちゃん、その玉、こわれてるんじゃないの?」
あたしはそう言って、くすくす笑った。あたしのこころの中に灯った小さな火がだんだん身体を暖めはじめていた。
「いや、そんなはずはないよ。この水晶の玉は、真実が見えるのだから」
そう言って老婆は、水晶の玉を紫の布でゆっくりとなでた。
「それじゃ、あんたよりもっともっと幸運なひとのお話を聞かせてあげようかね」
「え?」
「わたしの手を見てごらん。ほら、左手の人差し指に深い傷跡があるだろう。この傷跡を見るたびに、ある幸運な人を思い出すんだ。あんたよりもずっと幸運な人だよ。
どうだね。そのひとの話を聞きいてみるかい?」
「あたしより幸運なひとなんていくらでもいると思うけど。いいわ、別に急がないし」
老婆の話は、あたしにとって意外なものだった。

「そのひとの生い立ちはよくわからない。兄弟がたくさんいたこと以外はね。
7人か8人。そのひとは上から3番目に生まれた女の子だった。
上は二人とも男の子だったから、そのひとが弟や妹たちの面倒を見なければならなかった。なにしろ数が多いから、彼女はたいへんな苦労をしたんだよ。
そして女学校を出たころお国が戦争を始めたんだ。たくさんのひとが軍隊で訓練を受け、戦場に行った。彼女の兄弟も何人か軍隊に入り、そして何人かは、戦場で死んでいった。

戦争のさなかに彼女に縁談がもちあがり、そして結婚した。
翌年、女の子が生まれた。ひとときの幸せがあったけれど、すぐに夫は戦争に駆り出され、南の遠い島で最期を遂げたという知らせが届いたんだ」
「ね、おばあちゃん、あたしより幸運なひとの話を聞かせてくれるんじゃなかったの?」
「そうだよ。そう聞こえなかったかい?」
「だって、おばあちゃんの話してるそのひとって不幸なことばかり続いてるじゃない?」
「戦争で兄弟や夫を失うのは、この時代のひとにとっては、けっして珍しいことではなかったんだよ。もう少しこのままお聞き。まだ続きがあるんだ」
老婆は、またあたしの顔をじっと見つめて話を続けた。
「多くのひとの命が失われた戦争がようやく終わった。
子供の頃に面倒を見たそのひとの兄弟たちはすっかり大きくなって、彼女を助けてくれた。そして、貧乏住まいだったけれど、彼女の子供はすくすくと育ち、大人の女性になったんだ。
「ふうん。それから幸せになるの?」
老婆は、相変わらずあたしの顔をじっと見つめている。
「まあ、最後までお聞きなさいね?いいかい?
そして、娘は幸せな結婚をして、二人の子供ができたんだ。女の子と男の子だね。ふたりともやさしい、いい子だった。
もうすっかり年を取ったそのひとが、たったひとつ楽しみにしていたことは、二人の孫がときどき遊びに来て、自分の手料理をおいしそうに食べてくれることだった。
とても幸せな日々だった。
そんなある日、そのひとは突然胸が苦しくなった。お医者に見てもらったら、悪い病にかかっていることがわかったんだよ。
彼女の命は、もってあと半年だとお医者は言った。
娘と娘の夫は、そのことを彼女に告げられなかった。けれども、彼女は自分の命があとわずかだということを悟っていたんだ。
二人の孫は、ときどき病室に遊びに来てくれた。
けれどまだ小さかったから、おばあちゃんがもうすぐ死ぬということがよくわからなかった。彼女は痛む身体を無理に起こして、二人の孫にりんごを剥いてあげた。
『おばあちゃんは、子供のころからりんごが大好きなんだよ』彼女は孫たちにそう言った。
そして、彼女は亡くなる前の日に、自分がどれだけ幸運だったかを娘に話したのさ。
あたしは、この世に思い残すことはなにもない。大変な苦労をしていたころに頼れる兄弟たちがいた。恐ろしい戦争のさなかに信じあえる夫がいた。やさしい娘や孫たちに囲まれて幸せな家庭で暮らすことができた。そして今、愛すべき、おまえたちに囲まれてこうして自分の一生を終えることができる。こんなに幸せなことはないよ。そのひとは確かにそう言って帰らぬ人となった」
老婆はそこまで話すと、目を閉じた。じっとなにかを思い出しているかのようだった。
「幸運なひとの話はこれで終わりだよ」
そして、老婆は不意に目を開いた。
テーブルの上の水晶の玉の上に両手をかざして、ゆっくりと手を動かしながら言葉を続けた。
「あんたが本当に心を許せる友だちはだれだい?もしかしたら、転校した先で初めて声をかけてくれた同級生が、今でも親友ってことはないかい?その親友と今でもときどき連絡を取り合って、とても大切なお付き合いをしているんじゃないかい?そういう友だちが、お国のあちこちにいたりしないかい?」
あたしはどきりとした。
「高校生のときにひとり暮らしをしていた経験が、今、とっても役に立っていないかい?あんたの手料理がおいしいって誰かに褒められたことはないかい?
あんたがきっと子供たちを立派に育てられるお母さんになれるって、ひとからうらやましがられたことはないかい?
学生時代にアルバイトで覚えた接客マナーやパソコンの知識が、今、生きてゆくうえでおおいに役立っているっていうことはないかい?」
たたみかける老婆の言葉に、あたしは身体じゅうを電気が走るような感じを受けていた。
「ど、どうして」
「ほうら、運なんてそんなもんだ。あんたが悪い悪いと思っていた運が、じつはちゃあんと自分のためになっている。
逆に生まれたときからずっと幸運に恵まれているひとを想像してごらん。どんな人生にもいつか必ず足元にぽっかり落とし穴が待ち受けているもんだ。ずうっと幸運だったひとが、そんな落とし穴に落ちたときこそ本当に嘆くんだよ。あたしはなんて運が悪いんだ!ってね。

あんたは幸運なひとなんだよ……」
あたしは、あたしのなかで、なにかがこみ上げてくるような気がした。長い間わだかまっていた霧のようなものが少しずつ晴れていくような、そんな気がしていた。
そして、この小さなしわくちゃの老婆がとても不思議な、大きな存在に感じ始めていた。
 
「今夜はこれで店じまい。
あんたは、確かに幸運な人だよ。そう思って暮らすがいいよ。そうすればきっと幸せになれる。
きっとね」
そう言って老婆は、水晶の玉から手を上げた。
そのとき、光の加減で、老婆の左手の指の傷がはっきりと見えた。
「ねえおばあちゃん、その指の傷の話、まだ終わってないじゃない?」
「ああ、これかい。この傷はね。さっき話した、あんたよりずっと幸運な人の話に関係があるんだよ」
「どんなこと?」
「そのひとがもう意識がなくなって、家族のみんなに看取られて死んで行くときに、わたしがふと思いついたんだ。おばあちゃんが大好きだったりんごを食べさせてあげたら生き返るかも知れないってねえ。まだ四つの子供だったから、そばにあった果物ナイフであわててりんごを剥こうとして、指を切ってしまったんだよ。
そうさ。わたしはそのひとの孫娘なんだ。この指の傷を見るたびにおばあちゃんを思い出すんだよ」

あたしはその老婆の店で、最初に見つけたアンティークのテーブルランプを買って、駅に向かった。
さっきとは打って変わってすたすたと軽い足取りで駅のほうに向かった。
改札を通り抜けたとき、不意にケータイ電話がなった。
ユウコが受話器の向こうで完全に取り乱していた。
「ね、聞いてよ。誕生日だったから内緒でプレゼント買って慌てて帰ったのに、あいつ、自分の部屋に別の女連れこんでたんだ!信じられないよ!あたしのこと世界一好きだって言ってたのにー」
そこまで言うと、ユウコは電話の向こうで泣き崩れた。
あたしは思った。
ユウコは幸運な人だよ。少し大人になれるのだもの。

「幸運なひと」

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