カフェのある人生 吉祥寺キッチンバトル編
今思えば、吉祥寺カフェ時代の話には始めからケチがついていたのかも知れない。
新宿三越時代から時は遡り、2003年のハナシだ。
渋谷SUSでの仕事ぶりが認められたのか、数ヶ月で社員として登用された俺は、いきなり新店舗のキッチンを任される事になった。
まぁ所謂、中途採用のヒラ社員だ。
渋谷SUS や高円寺のメンバーも合流して新チームを組み、吉祥寺のライブハウス『曼荼羅2』の上に作る新しいカフェに配属となった。
当時の俺は写真の通り、チャラい感じのB-BOYファッションで、若さゆえのパッションしか持ち合わせて無かった。
まぁ所謂、調子に乗ってた若造だ。
社員になっても朝まで遊び倒すなんてザラで、スケートデッキを枕に店の裏手で仕事まで寝ている事も良くあった。
そんな状態だったが、キッチン仕事は手を抜かずにやっていた。
いや、むしろ気合いを入れ過ぎてしまい、どちらかと言うと若干煙たがられていた。
なぜなら社員となった俺は、渋谷SUSの時より気持ちのギアをガッチリ上げていたのだが、それが悪い方向に出てしまったんだ。
要は料理人としての変なプライドから、キッチン以外の仕事を全くしようとしなかった。
ある忙しい時、ホールの女性社員からレジに入って欲しいとお願いされた俺は大声で、
しかもまな板に包丁を突き立て、こう言った。
『俺はここに料理作りに来てるのに、なんでレジなんてやんなきゃいけねぇんだ!』
アラフィフの今でも思い出すだけで恥ずかしい、どうしようもなくアホなエピソードだ。
そんな感じのスタートだったが、料理にこだわる事自体は少しも悪く無いし、気が合うスタッフばかりだったので、みんなとの時間や関係が進むにつれ、カフェの雰囲気やレベルはドンドン良くなっていった。
そして流石に反省した俺も、レジ位には入る様になっていった。
この『キッチン以外はレジだけ入るスタイル』は数年後の新宿三越時代まで続けていた。
その頃の俺はキッチンバカだった。
だが吉祥寺店の真の問題点は、そこでは無かった。
新鋭ベンチャーとして意気揚々として作った3店舗目の地域密着型カフェだったが、殆ど客が来なかったのだ。
俺と違って店長と女性社員はキチンとしたタイプだったし、料理は渋谷SUSの人気メニューで構成していた。
ヨースケ初めスタッフはみんなグッドボーイ、グッドガールばかりで、楽しくて明るいお店を作ってくれていた。
なのに客足が絶望的に無かった。
当時の吉祥寺にもカッコ良いカフェ文化があり人気店も多かったし、俺もニギロやハンモックにはよく行っていた。
という事は、完全にマーケティングの失敗という訳だ。
そんな状況で本部に詰められているであろう店長を横目に、皆で出来る事をやろうとメンバー達と共に色々な事に取り組んだ。
つまり、逆風が店を団結させた。
当時はネットが普及していなかった時代だから、対策は当然アナログスタイル。
大学構内にチラシ配りに行ったり、駅前に呼び込みをしに行ったり、やれる事はなんでもやった。
もちろんキッチン仕事にも更に気合を入れ、料理のクオリティーには万全を期していた。
少ないながらもいた常連客には宮藤官九郎さんもいたし、決して人気が出ない様な悪いカフェでは無かったと思う。
希望を捨てず、自分たちを信じて、毎日バトルの様なら気持ちで全てをかけてカフェに向かっていた。
だがついに、無常な経営判断が本部から下された。
先ずは人員削減、つまり店都合のスタッフへの退職勧告だ。
俺ら社員達は、仲良かったスタッフ達に涙ながらに事情を伝えなければならなかった。
なのにスタッフは誰1人ゴネたりする事はなく俺らの話を受け入れてくれた。
今でもあの時の悔しさとやり切れなさ、申し訳なさは強く心に残っている。
だがその後も店は一向に好転せず、とうとう社員の俺らにも異動命令が下ってしまい、俺はオープンから半年で高円寺店に異動となる事が決まった。
高円寺店は俺が渋谷SUSに入ったキッカケの店、つまり当初の希望通りのカフェで働ける事になった訳だ。
だが、社員としてのカフェキャリアがいきなり頓挫した様な気持ちだった俺は、吉祥寺の事を引きずりしばらく落ち込んでしまっていた。
そして吉祥寺店はオープンから1年後、カフェという形を断念し、居酒屋へと業態変更。
それが上手くハマったのか、令和となった今でも営業を続けている。
つまりあの場所にはカフェより居酒屋のコミュニティが必要とされていた、という訳だ。
こうして、俺は何の結果も出せず無念の途中交代という結末で吉祥寺カフェ時代を終える事になってしまった。
だが冒頭の通り、吉祥寺店のオープン前からこの顛末は決まっていたのかも知れない。
それは、吉祥寺オープン数ヶ月前のハナシだ。
社員になる事が決まりすっかり気持ち良くなり過ぎた俺は、新年会で大暴れした挙げ句に社長の胸ぐらを思い切りつかむという前代未聞の事件を起こしていたんだ。
そんなヤツに良いカフェなんて作れる訳がない。
そうか、なるべくしてそうなったんだ、と今は思える。
当時の俺は調子に乗っただけの出来悪いのキッチンバカだった。
散々な吉祥寺時代だったが、あれから20年以上の付き合いとなるヨースケと働けた事だけが、唯一の救いだ。
こうして俺は吉祥寺時代を振り返り、
▪️チームとして働く事の大切さ
▪️お客さんが来てくれる事の有り難さ
▪️地域に合ったマーケティングの重要さ
を身を持って知る事が出来た。
カフェの世界も、決してスウィートな話ばかりでは無いのだ。
追記:
新入社員にそんな事をされても翌日には笑って許し、何度もその話をネタにしていた社長だったが、その目が10年間は笑っていなかったのを俺は知っている。