風と雲〜清宗異聞〜 作者あとがき
平家物語は作者不詳だ。僧侶によって書かれたと推測されているが、日本文学史上に輝く、これだけの名文であるにも関わらず、どうして名乗らなかったのか。
それはこの物語が平家への追悼である以上、どうしても生き残った、いや平家を貶めた人々への告発文になってしまうからだ。
もちろんはっきりと責めているわけではないが、事実を事実として書けば、自ずと誰に罪があるかは明らかになる。だから物語の中では作者が知る事実を全て書き切っている訳ではない。あまりやりすぎると作者の立場が危うくなるからだ。ただ事実を抜き取って書き残す、その足跡の中に公にできない真実を匂わせ隠している。私はそう感じている。
平家物語の中で、堀弥太郎という人物が登場するのは2回だけだ。最初は平宗盛、清宗親子の捕縛の時、そして親子の首を斬るシーンで清宗の首を斬る役。この親子と関係が深いというか、はっきりと清宗との関係性が浮かび上がるように書かれている。
この堀弥太郎は義経の配下であるが、実は金売り吉次であると平家物語の中で1行だけ記述がある。私はそれを読んだ時に、何か隠された事実があると確信した。義経を奥州藤原氏へ連れていった商人。そして平家の次期当主である清宗との関係。頼朝と関係が悪化し、義経一行が追い込まれていた背景。鎌倉に入れずに追い返された腰越の件以来、義経は親子に冷たくなったと記述されているが、まるで付け足しのような印象だ。本当なのか。むしろ煙幕のような匂いがする。何を隠すためなのか。
宗盛は都では有名だ。その顔を知らぬ者なぞいない。三条獄門にその首をさらすにしても偽首は無理がある。しかし清宗はどうだ。都にいた時は、まだ十歳。しかも朝廷の重職あったとはいえ、それはお飾りであり、実質何か政治に関わっていた訳ではない。平家の都落ちの直前に冠位を得たとしても、あまり表舞台で目立ったこともなかっただろう。しかも成長期で都にいた頃は青白い貴公子だっただろうが、西海を彷徨う船暮らしの中で顔色も黒く、顔も体も痩せ細っていただろう。つまり誰も清宗の本当の素顔を知らないのだ。
私は、義経は平家の残党と手を結び、頼朝と対抗していくために清宗を助けたと推測している。
義経は親子の首を斬った篠原の宿に、3日も滞留して平家に志深い僧侶を大原から呼び寄せている。念仏を読むだけのためにそんなことが必要だろうか。平家物語でもただ念仏を唱えるように言い聞かせるだけの役目だ。呼ばれた方も迷惑だろう。この僧侶は建礼門院が大原に隠遁する際にも彼女たちを匿っている。そしてその事は都の貴人は誰もが知っている。
平家物語を読んだ当時の人たちは、ここに隠された事実におそらく気がついたのではないか。
「風と雲~清宗異聞~」は篠原の宿の私の想像する情景から始まり、清宗の逃亡そして生き延びるために戦い続ける日々を描いた。夷島(北海道)から朝鮮半島を経由して大陸へ物語は続いていく。私にとっては最初の長編で、推敲には5年の年月がかかった。拙文ではあるが、思いの深い作品なので公開しようと思う。お付き合いいただけるとありがたい。