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先人に対する思い

侍は多くを語らず
駆逐艦「雷」艦長の取った行動とは

 私はイギリス人の
   デイビッド
だ。
 63歳になる。
 ロンドン郊外の小さな家に、妻と二人でささやかに暮らしている。

 今回私は初めて日本を訪れた。
 目的は祖父の恩人である「シュンサク・クドウ」という名前の日本人の墓にお参りするためだ。
 
 私の年からすれば、この訪日が最初で最後になるであろう。
 だからこそ絶対に成し遂げたかった。
 祖父のためにも、そして私自身のためにも。
 そしてその日本人の墓に行って、祖父に代わってどうしてもお礼を言いたかった。

   工藤様、ありがとうございました
   あなたが私の祖父を救っていただいた
   おかげで私が今こうしてここにいます

と・・・

 ただ心配なのは、私と妻も全然日本語が話せないことだ。
 ツアー旅行ならまだしも、お墓参り的なプラベートな旅に同行してくれる通訳もいないだろうし、その点だけが気がかりだ。

 しかし何をするにも楽観的な私だ。
 心配する妻に「日本は今外国人旅行ブームらしい、おまけに「おもてなし」という素晴らしい接待の文化がある国だ、向こうに行けばなんとかなるだろう」と安心させ、一路飛行機で日本に向かった。

 成田空港に着き出口に向かって歩いていると、マイクを手にした何やらテレビ番組のリポーターらしき日本人女性が近づいてきた。
 そして突然
「Excuse me,interview ok?」
(すいません、インタビューいいですか?)
と、マイクを向けられた。
「なんだこいつは?、失礼な奴だな」
とも思ったが、英語で話しかけてきたので「OK」と答えた。
 すると彼女は
「Why did you come to Japan?」
(日本へはどういった目的で来られたのですか?)
と言った。
  
 そこで私が
「私は、生前祖父が大変お世話になった日本人が眠る墓地にお墓参りに来ました」
と答えた。
 すると彼女は私の話に興味を持ってくれたらしく、続きを促された。

 そこで彼女に、ポケットに入れていた祖父の写真を見せながら

「これは私の祖父のリリーホワイトです。
 祖父は第二次世界大戦の時に海軍にいました。
 昭和17年、祖父の乗った軍艦はインドネシアのスラバヤ沖で日本海軍と戦いました。
 しかし日本軍の砲撃を受けて祖父の乗った艦は沈められ、生き残った将兵は海に飛び込み漂流していました。
 すると翌日日本の軍艦が近づいてきて、およそ400名くらいのイギリス人将兵を救助してくれました。
 そのなかに私の祖父もいたのです。
 その後祖父たちは全員戦時捕虜として母国イギリスに送還されました。
 終戦後祖父は祖母と結婚して私の父を生み、今私がこうしてここにいるわけです。
 その祖父は1974年に68歳で他界しましたが、生前は戦争のことについては何も話しませんでした。
 しかし私は祖父があの戦争を生き抜いたことに興味を持ち、いろいろ調べました。
 すると祖父の軍歴から、彼は1942年にインドネシアのジャワ島沖のスラバヤ海で日本軍と交戦し、乗っていた軍艦を沈められ丸一日近く400名近い仲間と漂流していたことを知りました。
 翌日祖父たちは、近くに来た「雷」(いかづち)という船名の日本の軍艦に救助されたことを知り、とてもびっくりしました。
 なぜその軍艦は、戦争中なのにそんなに多くの敵兵を救助したのか、戦争とは敵を殺し合うものではないのかと思っていたからです。
 そして「雷」という軍艦のことを調べたところ、当時その船の艦長だった「工藤」という名前の日本人のことを知り、その人が祖父の命を助けてくれた恩人ということが分かりました。
 残念ながらその艦長も既に他界しておられましたが、その方が眠っておられるお墓の場所なども分かりました。
 そのお墓は埼玉県の川口市にある薬林寺というお寺です。
 亡くなったとは言え、現在私がこうして生きているのも、その艦長が私の祖父を含むイギリス兵全員を救助してくれたお蔭です。
 戦争中に撃沈した敵の軍艦の乗組員を救助するなどということは聞いたことがありません。
 だから私はどうしてもそのお寺に行って工藤艦長のお墓の前で、祖父を救助してくれたことのお礼を言いたかったのです。
 それが私の来日の目的です」

と語った。

 通訳を通してその話を聞いたレポーターは、私の話に興味を持ったらしく真剣に聞き入っていた。
 そして信じられないことを言った。
「あなたのそのお墓参りの旅に、我々も同行させてもらえませんでしょうか?」

 多少戸惑いも感じたが、このレポーターの担当する番組が日本に来た外国人に声をかけ、その旅行目的が面白そうだと感じたものに同行取材するものだと教えてもらった。
 その番組は
   Youは何しに日本へ
という番組であるらしい。
 これも「おもてなし」のひとつかもしれない。 
 それであれば番組スタッフに通訳もいるし、この先の道程に不安もないだろうと思い、妻にも聞いたところ
   No Problem!
   (好きにすれば)
というような明るい表情だった。
 そこで私もレポーターに「OK」と答え、翌日の待ち合わせ場所を決めて、その日はそこで別れた。

 翌日私は「You~」のスタッフと合流し、薬林寺に向かった。
 スタッフがお寺の受付で番組の趣旨を説明すると快く受け入れてくれ、工藤俊作が眠るお墓の前まで案内された。

 しかし驚いた。
 私は、敵兵救助を指揮した素晴らしい艦長であったことから、そのお墓は遺族の手で立派なものが建てられているのではないかと思っていた。
 また彼は勇猛果敢な指揮官でもあったらしいので軍の顕彰などもあり、勝手に壮麗なお墓ではないかと想像していた。
 ところが案内された彼のお墓は他の先祖たちと一緒になった
   工藤家先祖代々の墓
という、ごく普通の小さなお墓であった。
 日本では、戦争に従事した者に対する尊敬の気持ちは薄いのだろうか。

 ただお墓の見た目はどうであれ、無事念願の工藤艦長の墓前に来ることができたことでほっとした。
 多少緊張しながらも、住職から教えられた作法で彼のお墓の前に立ち、持ってきたお花を供えて静かに手を合わせてこうつぶやいた。

  工藤さま
  あなたのお蔭で、私は今こうして
  ここに立ってあなたの魂に祈りを
  捧げることができています
  あなたが救ってくれた祖父の命で
  私もこの世に生を受け、祖父から
  たくさんの愛情と思い出を貰い
  私なりの人生を歩んでこれました
  ありがとうございます
  どうか安らかにお眠りください

と・・・

 涙が出るかと思っていたが、そうはならなかった。
 むしろ積年の思いが遂げられて、なぜか爽やかな気持ちになれた。
 祖父も天国で同じ思いに浸っていることだろう。

 番組スタッフから私の来日した目的を詳しく聞いたその寺の住職は
「そうでしたか。
それは遠いところはるばるお参りくださってありがとうございました。
 実は私は、生前工藤様と何度かお会いしているのですよ。
 彼は自宅に伺うといつも穏やかな顔で私を迎え入れてくれました。
 おとなしい無口な方で、戦争の話は一切しなかったですね。
 それは彼の奥様やお子様たちにも一緒だったようでした。 
 しかし戦後イギリスの外交官が、先の大戦中に「雷」という駆逐艦に救助されたことを公表してから日本でも知られるようになり、工藤様のご家族もそんな話があったのかとびっくりしたそうですよ。
 その外交官の方もあなたのおじいさまと一緒で、工藤様から救助されたひとりだったのです。
 工藤さんは自分の武勇伝を決して自慢したりしない、真の「侍」だったのです。
 あなたの国にも「騎士道精神」があるように、日本にも「武士道」という素晴らしい精神文化があります。
 祖父を尊敬し、その命を救ってくれた人のことを忘れずに遠路はるばるイギリスからお墓参りに来ていただくなんて、あなたにも「騎士道」の精神が流れていますね・・・」

 そうか、私もイギリスの誇る「騎士道精神」を持つ騎士(ナイト)の末裔だったのだ。
 住職の話で、改めて自分も「騎士」の末裔としての誇りを胸に刻むことができた。

 この住職の話にでてきたイギリス人外交官も「雷」に救助されたひとりで
   サムエル・フォール元海軍中尉
   (フォール卿)
という名前の砲術士官だった。
    彼もデイビッド氏同様、戦後恩人の消息を探し続けていたのだ。
 残念ながら、その後彼が工藤艦長の消息を探し当てた時には他界していた。
 しかしせめて積年の感謝の思いと伝えようと、2008年12月7日に来日し、66年の時を経て工藤家の墓前に念願の墓参りを遂げることができた。
 ちなみに、この時フォール卿を工藤家の墓前に案内したのは、駐日イギリス大使館付きの海軍武官のほか、「雷」の艦名を踏襲した海上自衛隊護衛艦「いかづち」の乗員員らであった。

 その後行われた記者会見で、フォール卿は
「ジャワ海で24時間近く漂流していた私たちを小さな駆逐艦で救助し、丁寧にもてなしてくれた恩はこれまで忘れたことがない。
 工藤艦長の墓前で最大の謝意を捧げることができ、感動でいっぱいだ。
 今も工藤艦長が艦上でスピーチしている姿を思い浮かべることができる。
 彼は勇敢な武士道の精神を体現している人だった」
と語っている。

念願だった工藤艦長の墓前にて焼香するフォール卿

 ~スラバヤ沖海戦での英兵救助の物語~
 それは歴史に埋もれた、日本海軍の見事な「武士道精神」の発露ともいえる感動秘話であった。

 工藤俊作
 大日本帝国海軍軍人
 明治34年(1901年)1月7日生
 山形県東置賜郡屋代村、農家工藤七郎兵衛の次男
 海軍兵学校第51期
 1940年11月1日より駆逐艦「雷」艦長を拝命

 1941年に開戦した大東亜戦争のさなか、「雷」は1942年3月1日のスラバヤ沖海戦で、友軍と協力してイギリス海軍の重巡洋艦「エクセター」や「エンカウンター」を撃沈した。
 翌3月2日、航行中の「雷」は前日撃沈した2隻の敵艦艇の生存者と思われるイギリス兵漂流者およそ400名を発見した。
 これを見た「雷」艦長の工藤俊作は「おい、助けてやれよ」と、さも味方を救助するかのように、躊躇することなく敵兵の救助を指示した。
 その場所は、敵潜水艦からの報復攻撃を受ける可能性の高い危険な水域であったにもかわらず、雷の乗組員たちは、約3時間に渡り彼らの倍以上に匹敵する422名の敵兵を救助した。 
 工藤は救助したイギリス将兵に「あなた方は非常に勇敢に戦った。今あなた方は日本海軍の名誉ある賓客である」と英語でスピーチしたという。

 当時イギリス兵は、誰も「日本人は野蛮で残酷だ」という先入観を持っていた。
 このため、「雷」が近くに現れた時、漂流中のイギリス兵は誰も「機銃掃射を受ける」と覚悟したという。
 中には軍医から配られていた自決用の劇薬を服用しようとする者までいたらしい。 
 ところが「雷」は直ちに救助活動に入り、全員を救助したうえ重油と汚物にまみれて弱り切った彼らを丁寧に介抱し、貴重な被服や食料を分け与えたりした。
 救助されたイギリス軍将兵は、翌日近くのインドネシア・バンジャルマシン港に停泊していたオランダ海軍の病院船「オプテンノール」に引き渡された。

 戦後工藤俊作は公職追放となり、故郷の山形で過ごしていたが、その後埼玉県川口市に移住し、1979年胃がんのため逝去されている。
    享年78歳だった。

 身長185センチ、体重95kgといった堂々とした体躯で柔道の有段者であったが、性格はおおらかで温和だった。
 そのため「工藤大仏」という渾名がついていたらしい。
 しかし艦内では鉄拳制裁を禁止し、部下にはわけ隔てなく接していたことから、彼が艦長を務めた艦内はいつもアットホームな雰囲気に満ちていたという。
 また決断力もあり、細かいことには拘泥しなかったので、部下の信頼も厚かった。
 戦後は海兵の同期生会に参加することもなく、戦死した同期や部下たちの冥福を仏前で祈ることを日課にしていたという。
                      

工藤俊作「雷」艦長

 上記敵兵救出の話は、戦時中は戦意高揚のため国民世論を考慮して、また戦後は自虐史観一色と大転換したメディアのために公表されることはなかった。
 また工藤自身も戦争中のことは、家族と言えど一切口にすることはなかった。

 しかし国は違えど、お世話になった先人に感謝の念を伝えるために墓前に参拝したいという気持ちは同じなのだ。
 今回紹介した「Youは何しに~」で取り上げられたデイビッド氏にしてもフォール卿にしても、お世話になった先人に哀悼の誠を捧げる気持ちは万国共通の理念とも言える。

 それを日本だけが先人に対する思いを封印している。
 特に近代史に至っては、このような感動的な美談にさえ蓋をする。
 また、靖国神社に参拝しただけで何か特異な思想の持ち主だというようなレッテル貼りをしたがる。
 是々非々の評価をしようとせず、全てを封印しようとする。
 戦後GHQが蒔いた占領政策をいまだに踏襲し、自虐史観を植え付けられているだけにもかかわらず、おまけに戦後80年も経とうというのに、いまだにその見直しすら考慮しない政権とメディア。

 今こそ日本は、自国の歴史に誇りを取り戻し、真摯に過去を振り返り、適正な評価をしなければならないのではないだろうか。
 外国人でさえ、たとえ過去は敵兵であったとしても、お世話になった人ならば感謝する気持ちを忘れずに墓前に参拝するというのに、日本人だけがいつまでも歴史(近代史)を封印して、先人に対する尊崇の念を失くしつつあるのは残念でならない。

 また工藤艦長のように、真の「侍」は殊更に武勇伝をひけらかしたりしない。
 そうであれば先人達の素晴らしい轍(わだち)を未来に語り継ぐのは、同胞としての日本人の責任ではないだろうか。

 そういう思いに至らせてくれた稀有な番組であったことから、noteの投稿を通じて広く皆さまに知って欲しいという思いで上梓した。

 2024年(令和6年)12月24日放送のテレビ東京系番組「YOUは何しに日本へ」を見て。

駆逐艦「雷」わずか乗組員約200名の軍艦が、400名あまりの敵兵の命を救った!





 
 
 
   




  

 

    
   

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