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人目を気にする文化

外国人から見た日本

 とかく日本人は人目を気にする。
 それは行列に表れている。
 公共の場所ではほとんどの人がちゃんと行列に並んでそれを崩さない。
 例えば、乗り物の乗車待ち、イベントの開場待ち、行列ができるお店などなど、とにかくあらゆる行列に辛抱強く並ぶ。
 なぜか?
 理由は簡単だ。
 人目を気にするからだ。
 なぜなら日本では、ルールに従わない人間は白い目で見られる。
 その人の目に耐えられないからだ。
   だから、とにかく他人と同じ行動をとればとりあえず安心する。

 ところが、国柄にもよるが諸外国の行列に目を向ければ、割り込みがあったり、時間が長くなれば不満げな声をあげたり、行列も乱れたりしてくる。
 待ちきれないと思うと先頭に押しかけるや、もう収拾がつかなくなるという映像も目にすることがある。
 特に発展途上国や被災地、戦地などとなれば、物資の支給は行列どころかもはや争奪戦のような様相を示すものまである。 
 人目を気にする人などいない。
 誰もが我先にという行動をとる。

 ところが日本では、大震災の直後でさえ、人々は誰一人感情を露わにすることなく、どんなに時間がかかろうと辛抱強く行列に並ぶ。
 今年初めに羽田空港で発生した日航機と海保機の衝突事故という命にかかる事態の時でさえ、日本人は煙が上がった機内でCAの指示どおり着席し、その誘導に従って行列を作って秩序正しく脱出した。
 そしてこれらの映像を見た外国人は一様に驚愕したという。 
   日本人は何て高潔な
   秩序を重んじる民族なのだろう
と。
 そうだろう。
 客観的に見れば公共心があるということになるだろう。
 ただ日本人だったら自然と心のなかで
   みんなが並んでいるのに
   自分だけそのルールに従わない
   のは恥ずかしい
という思考も働いているはずだ。
 つまり他人と違った行動をしては、端ない(はしたない)という長年培われてきた「恥」の精神も自然と働いているのだと思う。
 端ないとは
   慎みがなく、礼儀や品格などが
   欠けていて見苦しいこと
   みっともないこと
とある。
 これは「武士道」の精神で培われてきた「名誉」という価値観と対極にある「恥」の文化が日本人のDNAに深く刻み込まれているからだと思う。
 すなわち
   人前で恥をかきたくない
という心情だ。
 日本人にとって「恥」は「不名誉」なのだ。
 これはもう文化と言ってもいいだろう。

 だから「人目」を気にする日本人というものは、個人主義が強い外国人には奇異に写りつつも
   日本人は公共心が備わっている
と、いいほうに解釈してくれる。
 しかし日本人の公共心は、この人目を気にするという心理と恥の概念で支えられているといっても過言ではない。

 言わば日本の文化は、人目を気にする文化、恥の文化とも言える。
 そしてそれは未だに日本人に根強く残っている。
 だから外国人から見れば
   日本は統制のとれた社会
と映るのかもしれない。
 逆に言えば
   個性が少ない社会
とも言える。

 そして来日外国人が多くなった現在、その人目には外国人の目も含まれるようになった。
 自国の文化がどのように評価されるかという「人目」を気にするからだ。
 最近は何かと日本文化が評価され、多数の外国人が日本の食や文化に直接触れることを求めて来日してきている。
 それはそれでいいことだ。
 一部で
   オーバーツーリズム
という問題を引き起こしながらも、国は金になることだからあえて黙認してその全てを受け入れている。
 テレビでも
   外国人が選ぶ日本の絶景
   外国人が選んだ絶品和食
   外国人が行ってみたい云々~
などなど、外国人の視点から見た日本のいいところ探しのバラエティ番組に事欠かない。
 公共放送のNHKでさえ
   クール・ジャパン
という番組で、外国人出演者を多数揃えて、しかも英語で日本のいいところを聞き出すという念のいれようだ。
 そして、彼ら外国人に日本が素晴らしい国だと言わせて日本人の自尊心をくすぐる仕掛けとなっている。
 番組を見た日本人は
  そうか
  日本ってそんなにいい国なのか
と、改めて日本の良さを再認識する。

 しかし素朴な疑問も沸きあがる。
 なんで日本人が自国の文化や歴史に誇りを持って発信しようとしないのだろうか。
 そのような意図を持った番組やSNS上の発信もあるにはあるが、マジョリティとなっているとは言い難い。
 政府やメディアが発信しているものは、ビジネス絡みの商魂たくましいものばかりで、歴史や伝統に踏み込んだ奥深いものは少ない。
 
 なぜもっと日本人自身が、自国の文化や歴史に誇りを持とうとしないのだろうか。
 外国人に頼らなければ日本の文化や歴史を発信してはいけないと考えているのだろうか?
 
 ところが、そのような観点から日本国内で日本人自身が
   日本の文化や歴史に誇りを持とう
というようなことを言えば変な顔をされることがよくある。
 特に歴史観に踏み込んだ発言をすれば必ずと言っていいほど
   右寄りだ
   国家観が戦前だ
などと、全く的外れな論調の意見が必ず出てくる。
 ということは、日本では日本人が自国の文化や歴史に誇りを持つことを良しとしない人が少なからずいるということである。
 なんとも不思議な国である。
 世界中見渡しても、国民が自国の文化や歴史に誇りを持たない国などない。

 アメリカなどは、原爆を2発落とすという戦争犯罪さえ
   原爆投下によって多くの
   アメリカ兵の命を守った
と正当化し、未だにその影響で死にゆく日本人のことを一慮だにしていないように思える。
 たとえ負の歴史であっても決してそれを認めず、自国に都合のよい解釈で教育を行っているのが世界の実情だ。
 他方、その原爆を落とされた広島では
   安らかにお眠りください
   間違いは繰り返しませんから
と、まるで日本人が悪かったかのような主語のない奇妙な日本語が刻まれた碑が未来に向かって残されている。
    長崎でも、あの有名な座像がアピールしているのは世界平和であって、決してアメリカを非難しているものではない。
 今の日本では自国に誇りを持ってはいけず、それは他人、つまり外国人が評価することになっているようだ。

 なぜ日本はそのようなことになってしまったのだろうか。
 それは、先の大戦でアメリカが日本人の強さに心底畏怖して、日本人をその内面から完全に骨抜きにしてしまったからだ。
 事実アメリカは、原爆投下や都市の無差別爆撃といった戦争犯罪と圧倒的物量に頼らなければ勝てなかったほど、当時の日本軍は本当に強かった。
     軍だけでなく、国民の精神力も極めて強かった。
     普通の国であれば、国家の首都を焼け野原にされて ひと夜で国民が10万あまりも焼け死ねば、その時点で勝負あっただろう。
 ところが日本は降伏しないばかりか、特攻攻撃はさらに激しくなった。  
 このためアメリカは原爆を落としただけでは安心できず、戦後日本に進駐すると、過去の歴史や神話といった国民のアイディンティティに関わる大切なものまで全否定して日本を解体し、アメリカ的民主主義価値観一色に変えてしまった。
 戦前の価値観は全て悪とみなされ、日本のために戦った軍人は罵倒された。
 だから、戦後生き残った人たちは先の大戦について多くを語らなくなってしまった。
 そして過去の歴史は全て過ちとみる
   自虐史観
だけが多くの日本人に根強く残ってしまった。
 さらに戦後の歴史教育は、単に時代ごとに発生した大きなできごとや事件の名前とその年号を覚える暗記科目となってしまった。
 教育の場においても、日本の歴史を再評価することは許されなくなってしまった。

 そのような歴史観や歴史教育が戦後あまりにも長く踏襲されたため、ほとんどの日本人がそれに気づかず、もはや常識と化してしまった。
 このため日本人は知らず知らずのうちに、自国の歴史や文化に誇りや自信を持てない国になってしまい、もはや外国人から
   日本は素晴らしい国ですね
と評価されないと、自国の価値を認識できない国になってしまった。
 だから外国人の目が気になる。
 そして奇しくもそれは日本の
   人目を気にする文化
と合致したため、ことさら諸外国の顔色ばかり窺う外交にもつながった。
 このため、どれほど相手が反日的な国であっても決して声を荒げることなく自己の戦争責任について自らあげつらい、謝罪と補償を繰り返してきた。

 現在国連を中心に
   SDGs
の機運が急上昇して、我が国もその世界的風潮に乗り遅れてはならないと「人目」を気にする外交を展開し、メディアも駆使してさかんに国民に吹聴している。
 しかし、実はSDGsが掲げる目標のなかには、日本では既に江戸時代から取り組んでいたものもある。
 例えばSDGsのなかにある「教育の機会均等」や「ジェンダーの平等」というような取組目標なども、寺小屋制度などを見れば分かるとおり、その頃の日本では、男女の別なく、また士農工商という身分制度があったにもかかわらず、それぞれの性別や身分において読み書きやそろばんなどが平等に教えてられていた。
 教える立場の女性さえいたほどだ。
 当時の欧米のように、決して学問は上流階級のものだけではなかった。
 日本は、当時世界最高の識字率を誇った、またジェンダーレスの風潮を先取りした(超)先進国という一面もあったのだ。

 ところが誰もそのことに着目して、日本人自身が日本の歴史を見直すということに目を向けようとしない。
 なぜなら歴史を封印されているからだ。

 戦後の偏向した歴史教育で、戦前の歴史をほぼ全否定されてしまったことから、明治、大正、昭和の歴史はもとより、その基礎となった江戸時代まで
   峻烈な身分制度により
   個人の人権が著しく制限
   された暗黒の時代だった
というイメージが作られたからだ。
 とんでもない誤解と偏見である。
    欧米がSDGsなどと騒ぎ出すはるか150年以上も前から既に日本は、性別に関係なく、教育の機会が均等に与えられた社会だった。
    だから開国すればあっというまに文明国の仲間入りを果たせた。  
 歴史を封印されると、自国の本当の素晴らしささえ分からくなってしまうという恐ろしいことになる良い例である。
  
 一方過去に日本を訪れた外国人は日本をどう見ていたか。
 江戸時代末期に日本を訪れた外国人は、当初日本人のことを「ちょんまげ」というおかしな髪型をして変な服を着て、木造の家に住んでいる貧しい国民と見たらしい。
 しかし日本に長く滞在することになった外国人は、次第に日本の文化や文明の高さに驚愕するところとなった。

 有名なペリー提督は、帰国後著した
   ペリー提督日本遠征記

   日本では読み書きが普及しており
   国民は見聞を得ることに熱心で
   教育も普及している
   清国と異なり、日本の女性は男性
   と同様に知的な場所にも参加して
   おり、文学にも精通している
   モノづくりについても、粗末な道具
   から精巧なモノを作り上げる手先の
   器用さがあり、開国すれば直ちに
   我々の強力なライバルとなるだろう
と記している。
 ペリーの日本を見る目には括目すべきものがある。
 事実その後の日米の歴史は、ペリーの予言どおりとなった。 
 
 また1860年に来日したプロイセン(現ドイツ)海軍の
   ラインホルト・ヴェルナー艦長
も、自身が乗艦したエルベ号という艦船の名を冠した
   エルベ号艦長幕末記
という書のなかで
   日本では召使の女性でさえ
   親しい友達に手紙を書く
   ぼろをまとった肉体労務者でも
   読み書きができる
   日本では読み書きができない人
   はほとんどいない
   世界中にこのような国はない
と、日本人の識字率の高さと、男女が同等に教育を受けている実情に驚愕している。
 そのほか、日本を訪れた外国人が日本のモノづくり文化や識字率の高さ、治安のよさ、すぐれた衛生面、優しい国民性などについて触れて驚愕したことを著した著作物は枚挙にいとまがないが、なぜかそのような書物を日本人が評価することは少ない。

 これは、自虐史観によってほとんどの国民が自国の歴史から遠ざかったために、このような日本の素晴らしい文化があったことを評価する機会が少なくなったからだと思う。
 だから、国連などで欧米人がSDGsを声高に叫べば、それがまるで新しい価値観のように勘違いしたメディアはさかんに喧伝する。
 今やテレビはSDGsに関連づけた番組やコマーシャルだらけだ。
 まるで、いかなる性的差別も許さないといった風潮に日本全土が覆われているような気がする。
 確かに単なる性的違いを理由としたいかなる差別もあってはならない。
 男性であれ女性であれ社会で活躍する機会は均等に与えられるのが究極の男女同権と言える。
 ただそのような価値観は前述のとおり日本では既に江戸時代からあったのだ。
 歴史を封印されてしまっているから知らないだけだ。
 これは誠に不幸なことと言わなければならない。

 人目を気にするのもいい。
 それは日本人の隠れた美点でもある。
 そのことで、諸外国のように自己中心主義的考えではなく、一歩引いて世の中を俯瞰する目も養われることになる。
 また、今後ますますグローバル社会となって、人や物が世界中を駆け回る世の中になれば、外国人の目を気にする人も今より多くなってくるだろう。
 そうなれば、逆にこの外国人の「人目」を使わない手はない。
 もし日本の政権やメディアに自国の誇りを取り戻そうという気概がないのであれば、もはやこの外国人の目を借りて日本の素晴らしさを「逆輸入」するという荒療治に頼るという究極の一手に頼るしかないのかという気もする。
 しかし、それはそれでちょっと寂しい。

 やはり他力本願ではなく、まず日本人自身が日本の文化や世界最長の国体を有する日本の歴史の重みに気づき、その素晴らしさに気づくべきだろう。
 そのためには、少しでも多くの日本人が現在の日本を覆っている自虐史観や歴史教育のいびつさに気づき、真に自国に誇りと自信を取り戻せるようになってほしい。

 経済発展や国際協調も大切かもしれないが、まずは日本人自身が偏向した歴史観の呪縛から解き放たれることが大切なのではないだろうか。

 
 
 
   


 

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