ジャヤワルダナ氏を知ってますか
世界一の親日家
皆さんは、ジャヤワルダナ氏という人をご存知だろうか。
この舌を噛みそうな、なかなか覚えられそうにない名前の方は、スリランカ人で、既に故人ではあるが、親日家としても有名な人であったらしい。
恥ずかしながら、私はつい最近まで知らなかったが、この方は日本を分裂の危機から救ったといってもいい方で、多くの日本人にぜひ知っておいてほしいと思い、今回書いてみることとした。
本名は、「ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ 」といい、スリランカの第二代大統領を務めた方である。
スリランカはインド大陸の南東部に位置する九州の2倍弱の面積を有する日本と同じ島国国家である。
紅茶が有名で、セイロン茶と言えばピンとくる人が多いと思う。
彼が日本と初めて接点を持ったのは1921年3月、当時まだ皇太子であった昭和天皇を載せた戦艦が、ヨーロッパ遠征の帰途スリランカに寄港した時だったらしい。
彼は、その頃アジアで唯一欧米諸国の植民地政策に屈せずに独立を維持していた日本に尊敬の念を持っていたことから、その日本の皇太子は眩いばかりの威光を持つ存在として映ったものと思われる。
なぜなら、その頃のスリランカも、まだセイロンと呼ばれるイギリスの植民地であったからだ。
ただ、彼自身は裕福な家庭に生まれた文武両道の好青年で、将来を嘱望されており、大学卒業後は父と同じ法律家になった。
しかし植民地のままの自国の窮状を憂えて政治家に転身し、当時清国やロシアなどの大国を破って欧米諸国と対等に肩を並べるに至った日本をアジアのリーダーと仰ぐようになったのである。
また彼は、キリスト教から仏教に改信したことでも有名で、欧米的価値観よりも、アジアに軸足を持った政治家として、その後自国の将来を日本に託すようになった。
しかし不幸にも日本が先の大戦で敗れると、親日家であった彼は、逆にその将来を真摯に憂慮してくれるようになったのである。
彼の日本に対する最も大きな功績は、1951年にアメリカで行われた
サンフランシスコ講和会議
における演説であろう。
この会議は、先の大戦で敗北した日本を、国際社会がどう受け入れるかという大変重要な会議で、戦後対立が先鋭化した資本主義陣営と共産主義陣営の利害の駆け引きの場になり、日本が両陣営により分割されてしまうかもしれない危険もはらんでいたのである。
特に、ソ連、東ヨーロッパ諸国など、当時の共産陣営は、日本の戦争責任を声高に叫んで、莫大な賠償金を求めるとともに、北海道・東北をソ連、関東一帯をアメリカなど、戦勝国で日本を分割する案を提出したのである。
日本にとって、まさに某国の危機をはらんでいた会議だったのである。
しかし当時スリランカ代表としてこの会議に出席していた彼は、演壇に立つや
人はただ慈悲によってのみ
憎しみを越えられる
人は憎しみによっては
憎しみを越えられない
というブッダの言葉を引用して、アジアの将来にとって完全に独立した自由な日本が必要であると訴えたのである。
そして、その理由について
これまで長い間欧米の植民地政策
で疲弊していたアジアで日本だけ
がアジアのために立ち上がってく
れたことに対する高い尊敬と感謝
の念があるからである
と述べたのである。
さらに、国として日本に対する賠償請求を放棄する旨まで言及したのである。
演説が終わると、各国の参列者は、ジャヤワルダ氏が説いた仏陀の慈悲と友愛の精神に感動し、その場で立ち上がり拍手喝さいして、その称賛の声で会場の窓のガラスは割れるほどだったという。
この演説により、アメリカなど資本主義陣営が主張していた日本の自主独立論が多数となり、ソ連などが主張した日本分割案は退けられたのである。
その頃のアジア諸国は、日本の戦争責任などということを言っていないのである。
むしろスリランカのように、日本がわが身を犠牲にしてアジア解放のために戦ってくれたことに感謝こそすれ、謝罪を求めるような国はなかったのである。
つまり、戦後になって左翼が主張するようになった日本による欧米のようなアジアの植民地支配などなかったのだ。
この会議に参加した日本の吉田茂首相は、その演説を聞いて
日本人は、スリランカへの恩を
未来永劫伝えなければならない
と言ったらしい。
そして、わざさわざジャヤワルダナが滞在する宿舎まで赴いて、謝辞を述べたらしい。
ジャヤワルダナ氏の恩に報いるため、独立を果たした日本が最初に国交を樹立したのはスリランカであった。
そして日本は、スリランカに多くの病院や学校を建てたり、道路を整備したりした。
当時の国会議事堂さえ、日本が建てたのだ。
このためスリランカには親日家がとても多い。
笑い話になるが、日本で国鉄がJRと名前が変わった時、スリランカ人は、日本人がジャヤワルダナ氏に敬意を表わして、彼のファーストネームとミドルネームのジュニウス(J)・リチャード(R)の頭文字をとってJRとしたのだと思ったらしい。
この演説がなく、もしソ連などが主張した日本分割案が通っていれば、ドイツのように分断された国家となって、今の日本はもっと違った形になっていただろう。
ジャヤワルダナ氏の演説は、日本にとってとてつもなく大きなものだったのである。
このことは、我々日本人が決して忘れてはならない歴史的な出来事といっても過言ではないだろう。
そのような経緯もあったことから、戦後は日本の皇室との関係も深く、昭和天皇崩御の折には、その頃既に現職の国家元首ではなくなっていたにもかかわらず、異例の参列を招聘されている。
彼は、1996年に亡くなっているが
形に残るものは残さないように
と遺言しているため、スリランカ国内には墓も存在しない。
しかし、唯一その両目だけは
右目はスリランカ人に
左目は日本人に
と遺言しており、その遺言どおり左目の角膜は長野県の女性に移植された。
死してなお母国スリランカと敬愛する日本の行く末を見届けたかったのであろう。
まさに真の親日家と言える。
今のメディアは、決して戦前の日本の功績を認めるようなことはしないので、この演説の内容も表には出ないかもしれないが、日本人であれば決して忘れてはならないことである。
セイロンティを飲む時は、頭の片隅にでもこのことを思い出してほしい。
覚えにくい名前ではあるが、日本の偉大な恩人である。