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卑怯な取材

目的のためなら、何でもやっていいの?

    昨日、朝刊の一面トップに
            差別発言の秘書官更迭
という記事が載っていた。
    首相側近の秘書官が、LGBT(性的少数者)や同性婚を巡り
             見るのも嫌
と差別発言をしたということで、更迭されたという内容である。
    私はここで、LGBT等の問題について、どうこう言うつもりは全くない。
    多様性の時代であるから、人それぞれいろいろな生き方があり、社会がそれを認めあうことは大切だと思う。
     ただ、この発言を引き出したマスコミの取材が、実に姑息かつ卑怯なやり方なので、あえて一筆投じることとした。
     この記事は、その差別発言をした秘書官を新聞という極めて公共性の高いメディアで断罪しておきながら、その掲載に至った経緯については、記事の最後に
            この取材は、匿名、オフレコを原則
            とする非公式取材中のものであった
            が、首相側近による重大な差別発言
            であったことから、公益性に照らし
            て実名としました
と、ほんの申し訳程度に小さく書いているだけであった。
    私は、これを読んだ時
              ああまたか・・・
と、憤懣やるかたない思いがした。
    なぜなら、オフレコとは公表しないこと、匿名とは実名を明かさないことであり、それを前提に話したことは、本来表に出ないものであるが、マスコミは、何故か政治家や官僚などからの取材については、たびたびこの約束ごとを平気で破ってきており、今回の問題発言記事についても、それをほぼ踏襲した取材で入手したものであることが分かったからだ。
    この秘書官が言った
               見るのも嫌だ
という発言は、確かに公の場でしかもマスコミの前などですべきものではなでなく、公になれば、その影響ははかりしれないものがあり、それについては、この秘書官も分かっていたはずだ。
    しかもこの発言は、彼の内心を吐露したようなもので、それを内面に押し止めている限り、憲法上も保障された絶対的自由であったはずだ。
    
    LGBT等の問題なども、内心ではいろいろな考え方の人がいるはずである。
    しかしその内心に踏み込んだような内容を
                オフレコ、匿名
という甘言で引き出しておきながら、それを公表するというやり方は、極めて卑怯なやり方で、内心の自由までも踏みにじるようなものである。
     古来日本では
                卑怯者
は嫌われており、マスコミのこういった取材方法に多くの人が声を挙げないのが不思議であるが、彼らの持つ公共性、公益性という仮面に惑わされているからかもしれない。
    いずれにせよ、マスコミはこのような体質 を改めない限り、世間から相手にされなくなるかもしれない。
    いや既に、その兆候は表れていると見るべきか。
    最近の若い世代は、情報をスマホなど他の情報媒体から入手しており、新聞ばなれテレビばなれが進んでいると聞く。 
    以外と国民のほうが賢いのかもしれない。
     
    
    


    

 

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