アメリカでは日本の神話を教えていた?
そんな馬鹿な❗でも本当です。
防人の国ニッポンの本当の姿とは
最近あるユーチューブ動画を見て非常に驚いたことがある。
詳しくは下記動画を見ていただきたいが、なんとアメリカでは義務教育の中学校で日本の神話を教えていたらしい。
この動画は、私が敬愛する歴史家のひとりである
小名木 善行氏
が運営するサイトのものであるが、1970年代のアメリカにおいては、義務教育の中学校において日本の神話を教えていたことを紹介したものだ。
義務教育である以上国家が関与しているものであり、アメリカでは先の大戦後からごく最近まで、かつての敵国であった日本の神話を自国の子供たちに教えていたことになる。
これはどういうことを意味するのだろうか。
1970年代と言えば戦後日本が高度経済成長してめざましく発展した時期である。
彼らからすれば、あれだけ国土を荒廃に追い込まれながらも、戦後瞬く間に奇跡的復興を果たして国際舞台に復帰した日本に驚愕し、自国の子供たちにも神話の紹介という分かりやすい手法で、長い歴史と伝統を有する国の底知れぬ神秘的な力強さを教えておきたかったのだろう。
これは裏を返せば、アメリカは戦後も決して日本に対する警戒心を緩めていなかった証ともとれる。
戦後同盟国として表では手を握りつつも、未来を担う子供たちの脳裏には長い歴史を持つ国の強さというものを刻み込ませておくというしたたかな長期的戦略を持っていたのだ。
裏では剣を離さなかったのである。
ただ自国が決して及ばない国柄に対する憧れもあったのかもしれない。
何せ彼らの祖先は、その長い伝統と歴史と伝統を捨ててイギリスを抜け出してきた人たちだったから・・・
一方日本は、戦後になると神話など戦前の価値観を全否定し、安全保障をアメリカに委ねたままひたすら経済的復興に邁進した結果、奇跡的復興を成し得たことで、盲目的な米国追従国となって現在に至っている。
上記は、その動画のなかで紹介されているアメリカのアライン・ベーコン社という会社が1978年に発行した中学校の教科書(102ページ)であるが、そこには
イザナギ、イザナミという夫婦の
神様が神の国から宝石をちりばめ
た槍を眼下に突き刺して抜いたと
ころ数滴の滴が落ちて、それが
日本列島の島々になった
夫婦は孫にあたるニニギノミコト
という神様を地上に使わした
そしてその孫にあたる神武天皇が
日本の初代天皇であり、その即位
の日が
紀元前660年2月11日
で、それはキリスト聖誕前のこと
であった
現在の裕仁天皇(昭和天皇)はそ
の直系の第124代になり世界で最も
古い王朝である
と書いてある。
繰り返して言うが、これはアメリカの教科書である。
そこには我が国の建国記念日まで正確に書かれている。
戦後日本の義務教育では全く触れなくなった日本の国造り神話と、その後現代まで続いている世界一長い天皇制が正確に教えられているのだ。
今や世界の覇者となったアメリカではあるが、当時わずか200年ほどの歴史しか持たなかった彼らにとって、日本は長い歴史と伝統をもった国として畏敬の念を持って捉えられた存在なのだろう。
先の大戦に勝ったとは言え、これだけは彼らがどうあがいても日本に勝てない一面だった。
だからこそその歴史と伝統に関するものを根絶やしにして、日本人に自虐史観を植え付け、今後日本がアメリカに二度と立ち向かわないようにしたかったのだろう。
そのひとつとして日本人から神話の記憶を取り除きたかったのだろう。
そして、この話には面白い逸話も紹介されている。
アメリカの大学に留学していた日本のある若者が、寮のなかでアメリカ人学生から
日本ではイザナギとイザナミという
神様が日本を作ったという神話があ
るらしい
アメリカはキリスト教の国で、アダ
ムとイブが人類のはじまりと習って
いる
イザナギ・イザナミとアダムとイブ
の関係について君はどう思うか?
と尋ねられたらしい。
当然だろう。
日本ではキリスト誕生より前に既に国ができていたと教えられては、内心穏やかではなかったかもしれない。
ところが、そう尋ねられた日本の学生は
えっ?
モンスターゲームのイザナギのこと?
イザナギって神話の神様だったの?
と答えたらしい。
このアメリカにおける日本の神話教育が現在も全ての州で行われているかは定かではないが、上記逸話に出て来るモンスターゲームなるものが発売されたのが1990年代後半であったことからして、現在まで日本の神話教育が行われているであろうことは容易に想像がつく。
つまり大戦後日本はGHQの指令により、教育界で一切の神話教育が禁止されていたにも関わらず、アメリカではこれまで自国の子供たちに日本の神話を紹介してきたということになる。
そして我が国では、今でも日本の神話は一切教えられていない。
ところが世界では、どこの国でも自国の神話教育をしている。
神話も歴史の一部としてはじめに教えている。
建国後わずか500年足らずのアメリカでさえ
ピルグリムファーザーズ
という神話があり、同じ先の大戦の敗戦国であるドイツでも
ゲルマン神話
をきちんと教えている。
建国の経緯が不明瞭なお隣韓国でさえ
壇君神話
なるものがあり、その建国の正統性を権威づけしている。
世界中で自国の教育に神話を取り入れていないのは日本だけらしい。
では日本の歴史教育の現状はどうなっているのか。
戦後日本では、神話教育で使われていた
記紀
(古事記と日本書記の総称)
が姿を消して、考古学の対象となる縄文時代から始まり、出土した遺跡から科学的に日本の成り立ちを検証するという奇妙なスタイルに変わり、神話は教育課程から姿を消してしまった。
しかしなぜアメリカから独立して半世紀以上も経つのに、日本人自身に神話教育を復活しようとする具体的な動きが見られないのだろうか。
もし仮に日本が神話教育を復活したとしてもそれは国内問題で、いかに戦後の占領時代にその禁止を押し付けたアメリカと言えど、今さらそのことに干渉すれば完全な
内政干渉
となり、アメリカ自身が国際的に批判を浴びることになるはずだ。
なにせ上記のとおり、世界中どこの国でも神話教育は行っていることだから。
左がかった歴史学者のなかには、その理由を
神話は宗教の一種であり、義務教育に
特定の宗教を取り入れるのはよくない
政教分離に反する
ということを言う方がいるらしい。
政教分離とは
国家は宗教に関与すべきでない
とする国家の宗教的中立性の原則のことだ。
日本国憲法でも
国及びその機関は、宗教教育その他
いかなる宗教的活動もしてはならない
(憲法20条第3項)
と規定されている。
このため、国家が関与する義務教育に神話を取り入れることは、この憲法が定める政教分離に反するという論法だ。
その論理からすれば、神話教育を復活しようとする動きかあると訴訟問題となって最高裁の違憲判断が出されるおそれが十分ある。
おまけに日本の憲法は
硬性憲法
と言って、なかなか憲法改正がしにくくなっている。
(憲法改正には、各議院それぞれ3分の2以上の賛成で国会が発議し、国民投票で過半数の賛成が必要となる・・・憲法96条)
ただ、それらのことを巧妙に憲法に仕組んだのはアメリカであり、日本は今もってそれを一行足りとも変えず大切に守っている。
日本の政治家が靖国神社に参拝しただけでメディアが大騒ぎしたり、玉ぐしを公費で支出したかどうかや地鎮祭までもが問題視されたりして、これに最高裁が上記憲法の条文を根拠に違憲判決を出したりしてお墨付きを与えている。
まさにアメリカの術中にはまっているとしか言えない。
なんのことはない。
日本人自分自身が神話教育を復活できないように足かせをしていることになる。
そして不幸にもそのことを多くの日本人が理解できていないということになる。
いつまで経っても神話教育が復活しない理由がここにある。
しかし世界中どこの国でも、完全に政教分離など行っている国などない。
(政教分離を憲法で規定している国もアメリカや日本などわずかだ)
民主的国家では選挙により国政の代表が選ばれているものの、宗教上の儀礼的な行事には多かれ少なかれ国家が関与している。
ただそれはあくまでも形式的なものであり、国家権力そのものに特定の宗教が関与しているのではない。
日本だけが厳格に憲法の規定を守ろうとしているのだ。
確かに神話の延長線上に宗教があるという一面は否めないが、神話はその国の国民のアイディンティティ(国民精神)を支えるものである。
それは何が正しいことで、何が正しくないことかを道徳的に判断する縁(よすが)とも言うべきもので、憲法や法律以前の問題である。
ただ日本は、アメリカによってその精神的基盤を骨抜きにされながらも、国民は神話や神道を起源とする伝統や文化は頑なに守り通してきた。
正月、お盆をはじめとした行事(仏教的要素のものも多いが)や人生の節目ごとに行われる各種しきたり、神道を起源とする祭礼や参拝、稲作文化や日本食、日本語の維持など、どれだけ世界中の文化や宗教的行事などが流入しても決して崩さなかった日本の姿がある。
戦後GHQのなかに、日本語をローマ字表記に統一した文字だけにしようという動きもあったらしいが、日本人の漢字の識字率が極めて高いことに驚愕したアメリカ人がこれをあきらめたという経緯もある。
これはもう日本人の血に流れるDNAの成せる技だとしか言えないだろう。
私が投稿を通じて
日本の伝統や文化の素晴らしさ
をよく紹介するのは、ここにある。
そして日本人の素晴らしいところは、八百万の神々の信仰に支えられた
全てのものを受け入れ吟味し
よいものは日本的にアレンジ
して受け入れる
という大らかさだろう。
自然崇拝により自然界のあらゆるものに神性を感じ、信仰の対象としたのみならず、キリストや仏陀に対しても当初は穏やかに受け入れた。
しかしキリスト教の進出に植民地支配の意図を嗅ぎ取ったり、一部仏教勢力が軍事勢力化した場合は、迷うことなくこれを弾圧したり、鎖国を行うなど対策を講じている。
そのほか外国から湯水のごとく入って来るものに対しても、唯々諾々として全てを受け入れるのではなく、それを取捨選択して必要なもののみを受け入れ、より強い日本となってきた。
だから何も心配することはない。
どれだけ日本人が外圧に屈して、精神的基盤である神話を一時的に教えなくなったとしても、どっこいそれぞれの日本人には、先祖代々から受け継がれてきた日本人の血がある。
それはアメリカなどが及びもしない、2600年あまりの長きにわたる歴史と伝統で培われたものにほかならない。
そこに生まれ育ってきた日本人であればこそ、その体内に流れる血は同じDNAを持った民族としてこれまで生きながらえてきた。
もし日本が神話教育を復活させれば(それにはあらゆる抵抗勢力か立ちふさがるかもしれないが)、それこそ日本は民族が持っているDNAに加えてより強固なアイディンティティが加わり、さらに強大な国家として世界に君臨するかもしれない。
それをアメリカをはじめとした欧米諸国はいまだに恐れている。
自国では義務教育で日本の神話を教えながらも、日本にはそれを禁止したという徹底ぶりが何よりの証拠だ。
まさに、彼らにとっては
恐るべし、ニッポン
何度でも立ち上がる
ミステリアスな不思議の国
なのである。
だから彼らは、表向きは日米同盟やG7諸国として世界の一等国として手を握り日本人の英知と富を搾取しながらも、裏では日本が世界の覇者とならないように手綱を緩めないでいる。
それが狩猟民族たるアングロサクソンの発想だ。
勝つためにはいかなる手段も駆使する。
稲作文化を起源として「和」の精神で臨もうとする日本人とは、決して相いれないDNAを持っている相手だということをゆめゆめ忘れてはならないだろう。
また日本人は、本当に忍耐強い民族でもある。
大震災後がそうであるように、先の大戦後の復興がそうであるように、日本人はいかなる艱難辛苦も
耐えがたきを耐え
忍び難きを忍び
隠忍自重して、未来に繋いできた。
これも稲作文化という、長期に渡るスパンで農作物を育てるとこから芽生えた「耐え忍んで待つ」という精神を重要視するDNAからきているのだろう。
そして最後に、日本を取り巻く諸国の人々にひとつだけ申し添えておきたいことがある。
どうしても「堪えがたきを耐え、忍び難きを忍べない」国難に直面した時、日本人にはもうひとつ別な顔があることを。
それは、もし日本の国体そのものを破壊しようとする者が現れたら、日本人は一致団結して立ち上がる強さを有する民族であるということだ。
過去の日本人がそうであったように、その時は多くの日本人が防人として立ち上がるであろう。
元寇の時がそうであったように。
日清・日露戦争がそうであったように。
大東亜戦争がそうであったように。
そして特攻隊員たちがそうであったように。
それらの歴史を振り返れば、日本が戦わざるを得なかった相手は、いずれも当時の世界的大国ばかりであった。
人類がまだ内燃機関を持たない時代にあって最強の機動力であった馬を巨大な騎馬軍団として組織し、ヨーロッパからアジアにまで至る世界最大の領土を有していたモンゴル帝国。
産業革命を経て欧米列強の世界進出が始まった頃、蒸気機関を駆使して造り上げた世界最大・最強の艦隊を保有して不凍港を求めてひたすら南下政策を国是としたロシア帝国。
その後エネルギーが石油となり、世界最大の経済大国となって覇権と市場を求めて世界中の戦争に関与することとなったアメリカ。
日本は相手が誰であれ、そしてどんな強国であれ、いざとなったら立ち上がってきた民族でもあった。
先の大戦でアメリカに敗れはしたものの、わが身を犠牲にして国際社会に残したものは、欧米の植民地政策の終焉とアジア・アフリカ諸国などそれまで欧米に搾取され続けられてきた国々の独立であった。
そのような一面もある民族だということを決して忘れないでほしい。
命がけて国を守る民族であるということを忘れないで欲しい。
今年1年、私の拙いエッセイや小説におつきあいいだたいた読者の皆さま、本当にありがとうございました。
来春3月で投稿を始めて3年になります。
この間少しずつではありますが、たくさんの方にフォロー、スキ、コメントをいただくようになり、今後の投稿に意を強くしてきたところです。
私は来年以降も、歴史を通じて学ぶことの大切さをベースに、日本文化の素晴らしさ、長い歴史と伝統に支えられた日本人という国民性の素晴らしさを分かりやすく紹介するかたちで、少しでも日本という国に誇りを持ってほしい、つまり「自尊史観」を持ってほしいという思いを綴っていきたいと思います。
そしてあまり堅苦しくならないためにも、また自分自身の息抜きのためにも、日本と言う美しい国土を巡って感じたことや、何気ない日々の生活から感じた気づきなどにも目を向けて、時にはユーモアも交えて楽しく綴っていきたいと思います。
どうか皆さま良いお年をお迎えください。
そして来年もよろしくお願いいたします。