第六感て何ですか?
日本人が培ってきた感性とは
あるテレビ番組で松井秀樹とイチローが対談していた。
私はあまり野球に詳しいほうではないが、それでも松井とイチローがかつてアメリカの大リーグで活躍したスター選手であったことぐらいは知っている。
しかしもう既に50を越えて現役を引退している彼らが何を話すのだろうと思って興味を引かれて見ていた。
そのなかで松井がイチローに
最近の野球ってつまらなくない
ですか?
と話をふり、それにイチローが
それは感じる
何かデータが全てで
野球に面白さがなくなっている
と不満げに言っていた。
えっ、どういうこと?
今の野球ってデータが全てなの?
と、思わずその続きに聞き入った。
するとイチロー曰く、今の野球は高校野球から日本のプロ野球、アメリカの大リーグに至るまでデータ至上主義らしく、選手個人のプレーから監督の指揮まで、この場面で何をすればいいか、またどんな指揮をすればいいかそのほとんどをデータに基づき判断するらしい。
そして最近ではAIも活用して、そのデータ分析が高度化しているということだ。
彼は現役引退後、指導者やコーチとして招かれ、多くの後輩を育成・指導する立場に身を置いているらしいが、その現場での指導を通して感じたことのようだ。
つまり、これから起きることに対する最も効率のいい対応策を、全て過去の経験値に頼っているということで、個人のひらめきや直感または、執念、根性などと言ったデータ化できないものは切り捨てるということだ。
例えば各バッターの苦手なコースをデータ化してピッチャーの配球を考えたり、守備位置もそれぞれのバッターのデータによって変えたり、個々のピッチャーの投球フォームのデータからどのタイミングで盗塁したら最も成功するかという判断をしてサインを出すなど、あらゆる場面でデータやAIを駆使しているらしく、人間臭さがないことが野球の魅力を半減させているらしい。
二人はそのことを嘆いているようだった。
ただそれが最終的に成功するかは、実際にプレーする選手個人の能力ということになるが。
誤解を恐れずに言えば、大谷選手などはこのデータをもとにプレーするからこそ、あれだけ多くのホームランや盗塁を量産できたのだろうか。
(むろん、それを実現できる大谷選手の能力は素晴らしいが)
もはや
あいつには絶対に打たれたくない
というピッチャーの執念や
今度こそ絶対に打ってやる
といった根性は、時代遅れということか。
そう言われれば、確かにベンチに座った監督や選手がタブレットを手にしている姿をよく目にする。
またほかのスポーツ、例えばサッカーやバレーなどでも監督やコーチがタブレットを持っている姿をよく目にする。
そしてデータに基づく判断や指揮に従わない選手は監督から疎んじられ、最悪使ってもらえない時もあるそうだ。
だから、それぞれの選手は能力的にいいものを持っているにも関わらず、そのデータに従ってプレーしたり、監督もデータ分析した指揮を取るほうが評価が高いらしい。
なるほど、そういうものなのか。
野球もそういう時代になっているのか。
ただそうは言っても、野球に限らず全てのスポーツは勝負事なので、何が起きるか実際にやってみないと分からない。
だから面白いし、ときめくものがあるし、感動もある。
データが全てではない。
一昨年WBCのメキシコ戦で、栗山監督はそれまで不調にあえぎ続け三振ばかりだった村上選手を「点をとらないと負ける」という大切な場面でさえ交代させずにバッターボックスに送り出した。
データからすれば当然「バッター交代」だっただろう。
見ている多くの人もそう思っただろう。
それほど彼の不振はひどかった。
しかし栗山監督はあえて彼をバッターボックスに立たせてチャンスを与え、村上選手はその信頼に答えるかのように起死回生の逆転打を放って勝利に貢献した。
試合後村上選手は、監督があの場面で「迷わずいってこい」と言われたことで奮起し、そのことがあのヒットにつながったと語った。
また監督は監督で
あそこで村上を使わなかったら
彼の野球人生に大きな悔いを
残すことになると思った
と語った。
そんな監督の思いや村山選手の執念は、決してAIのデータでは出ないだろう。
この逆転サヨナラ打となったシーンは何度も取り上げられ、日本中に感動をもたらした。
データでは出てこなかったドラマがそこにはあった。
松井選手はかつて高校時代に、甲子園で相手チーム(四国の明徳義塾)から全ての打席を敬遠されるという前代未聞の対応を受けて、このときばかりは高校野球ファンからヤジや怒号が飛び出して、メガホンがグランドに投げ込まれるという騒然とした事態になった。
ただ相手チームの監督からすれば、過去のデータから松井選手のずば抜けた打撃センスを警戒してそのような措置を取ったのであろうが、野球を見に来ている人は誰もそんなことを望んでいない。
勝負師としての監督は、勝つためにあらゆる手法を駆使する必要があったのかもしれないが、高校野球ファンの多くは、当時超高校級スラッガーともとはやされていた松井のバッティングを見たかったのだと思う。
勝ち負けではなく、超高校級と目された選手のプレー自体を見たかった多くの人がいたのだ。
データ万能ではスポーツはつまらなくなる。
観客はドラマを、感動を期待しているのだ。
それにデータに基づいてプレーしたからと言って、100パーセント結果が出るとは限らない。
大リーグのワールドシリーズ第2戦で、大谷選手は盗塁失敗したばかりでなく、その時の2塁への滑り込みで左肩を負傷したため、このシリーズで彼のバットからホームランが生まれることはなかった。
おそらくデータに基づく盗塁のチャンスで走ったのであろうが、大谷選手でさえ必ずしも成功するとは限らないのだ。
野球には打率というデータもあるが、非常に打率が高く、ホームランやヒットを量産する強打者でさえ、その打率は2割から3割だろう。
ということは、10回打席が回ってきたうち7回から8回はヒットなどが出ない、つまり失敗したということだ。
データを駆使しても失敗のほうが多いということだ。
しかし勝負の世界では勝つことが最重要であり、そのためには最大限データも駆使するという発想も分からないではない。
でも何かそれだけで寂しい気がする。
少ない成功の確率に、思いや執念を賭けるというほうが人間らしいとも思ってしまう。
ではデータやAIが万能ではない時代に人間の判断要素は何だったのか。
それは、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚(これはあまりスポーツとは関係ないかもしれないが)の五感しかなかった。
確かにその五感を活用して集めたものも広い意味でのデータかもしれないが、それはあくまでも個人の経験値であり、膨大なデータを収集して判断するAIにはかわわない。
とても人間個人の経験値には及ばない膨大なもので判断するのだから、勝負事ではそのデータとAIを優先するのだろう。
それに比べて個人が収集した経験値は個人のものでしかない。
だから昔の一流選手は、ある意味このデータ収集力に長けた人と言えるかもしれない。
そしてその収集した個人的データを自分のプレーに生かせるからこそ一流選手だったのだろう。
だからこそ個人が輝いて見えたのだろう。
それぞれの個性が見えた。
そこがAIとの違いということか。
松井やイチローなど昔気質の一流の人になれば、データ万能のスポーツに
面白味がなくなった
と感じてしまうのもそこにあるのだろう。
また、これに加えて人間には
第六感
というものもあると言われている。
第六感とは
五感を越えた感覚や直感、霊感
などを指す言葉
と「AI」が教えてくれた。
意識では説明しづらい勘が働いた時などに用いられることが多く、超感覚的知覚(ESP)を含むらしい。
西洋思想では「インスピレーション」、また東洋思想では「意」と言われており、一見非科学的で不思議なものであるが、現在科学の分野でも第六感に関する研究が行われていると聞く。
一流のスポーツ選手ともなれば、まさにこの第六感も優れているのではないだろうか。
それは個人の経験値をはるかに超えたものであるが故に、その人が先祖から受け継いできた血やDNAの成せる技なのかもしれない。
実際あらゆる分野で、一流の人は親もその道を辿ってきたということがよくある。(必ずしもそれだけとは限らないが)
地震を予知する動物がいたり、人間でも近親者の死を予見する「虫の知らせ」なども、個々の能力というより先代から受け継いできた動物的データの結晶なのかもしれない。
そしてここぞという時に、その第六感さえもフィードバックして体現できる人が優れたスポーツ選手ということになるのだろう。
松井やイチローも、そこに長けていたからこそ超一流の選手となれたのだと思う。
何か素人が野球評論家のように偉そうな分析をして申し訳ないが、ただ誰にも、この経験値やDNAというものはある。
それが能力や生きる知恵となるためには、いかにそれまでの経験や自らの体内に宿しているDNAの記憶を生かし切れるかにかかっているような気がする。
そしてそれが時代を越えて子や孫に引き継がれていく時、その能力なり知恵も民族のDNAとして引き継がれていく。
それが民族の直感・インスピレーションとしても受け継がれていく。
それが松井やイチローの望んでいるような「個性」つまり、民族としての個性や日本人らしさに繋がっていくのではないだろうか。
我が国も、古来から八百万の神に対する信仰というものを紡いできた。
それは神道と天皇制という世界にも類を見ない長い歴史と伝統によって支えられてきたもので、その間に日本人が紡いできた経験値は何物にも代えがたい宝物だ。
そのDNAが私たち日本人ひとりひとりに時を越えてとめどもなく流れている。
また神道は他国の宗教のように唯一絶対の神ではなく、地球上のあらゆるものに神性を感じ、信仰の対象とするという大らかさを持ったものでもあっからこそ、日本がここまで発展してきたのだと思う。
唯一絶対ではないからこそ、他者から学び取ろうという姿勢に変わるからだ。
だから日本人は、日本は常に新しい物を吸収しつ進歩するのだろう。
そしてそのDNAがあるからこそ、どんなに時代が変わっても毎年日本独自のしきたりや行事を繰り返すことによって日本人としてのアイディンティティを保ってこれたのだと思う。
それはどこの国でも同じだと思う。
だから日本人は日本独自の行事やしきたりを大切にしていけば、自然と日本人としてのアイディンティティを保つことができて、本来の愛国心を保てるはずだ。
例えば日本では、年が明ければ多くの人が初詣に行って手を合わせる。
ただ、祈る気持ちや思いは人それぞれかもしれない。
そうだろう。
何せ八百万の神々の国だから。
それにこれだけ時代が変われば、初詣の受け止め方やスタイルもいろいろだと思う。
今年もいろいろなスタイルの初詣客を見た。
奇抜な服装、ペット連れの人、お年寄りを抱えた人、障害者を抱えた人、そして性別不明(?)な人などなど・・・
でもみんな初詣に行く。
そしてそこで日本人としての新年を感じる。
そのことが大切だ。
何も意識しなくても自然と神社に行って手を合わせる。
そのことを批判する人はいないだろう。
それが日本なのだから。
それが日本の宗教であり、伝統なのだから。
だから我々日本人は、初詣のように昔から伝わるしきたりや文化を大切に守ってさえいればよい。
するとそれが民族の記憶としてデータとして集積され、子孫に引き継がれていく。
それが日本人の「第六感」として、あらゆる危機に直面した時の知恵として役立つ。
どんなに時代が変わっても日本人らしさを失わずに済む。
そしてますます強い民族となっていく。
松井がイチローが、そして大谷翔平が、日本人として積み重ねられて来た「データ」と「第六感」を武器に超一流のプレーヤーとして世界に羽ばたいたように、我々普通の日本人も普通に日本人としての経験値を積み重ねて行きさえすれば、ますます素晴らしい民族となっていくだろう。
なぜならデータやAIでは処理しきれない膨大な民族の記憶が私たち自身に宿っているのだから。
2600年あまりも紡いできた民族のデータがあるのだから。
そんな膨大なデータを持った民族などない。
松井とイチローの対談を聞いて、日本人論まで思いを至らせることができたことが嬉しい。
そして災害や事故で始まった去年と違い、(私の住んでいるところでは)穏やかな天候にも恵まれて新年が始まったことに感謝したい。