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インドネシアの準国歌「愛国の花」
なぜ日本語なの?
インドネシア。
東南アジア南部に位置する共和制国家で、首都はジャワ島ジャカルタ。
赤道にまたがる地域に1万7000を越える島々を抱える世界最大の群島国家である。
現在人口は2億7000万人を越え、世界最大のムスリム(イスラム教徒)を有するイスラム国家として知られている。
第二次世界大戦後にオランダからの独立を果たし、その後経済的に大きく躍進したこの国は、今や東南アジア諸国連合(ASEAN)の盟主となり、東南アジアのリーダー的大国となった。
しかし先の大戦までは、そのオランダによる過酷な植民地支配と圧政による苦難の歴史があったことはあまり知られていない。
それは300年あまりの長きに渡った。
「東インド会社」と言えば、歴史の授業でその名前だけは聞いた方も多いかもしれない。
しかしこの会社こそ、 インドネシア人にとって悪魔のような植民地支配の組織だった。
国民は宗主国オランダによる現地の民族間闘争を誘発するような狡猾な施策、教育制度の撤廃等の愚民化政策、抵抗運動に対する過酷な弾圧等によって、未来に希望を失って無気力な生活を送らざるを得ない状況にまで追い込まれていった。
宗主国の圧政を耐え忍び、ひたすら彼らの利益にために奉仕するだけの存在となってしまっていた。
しかし大東亜戦争がはじまり、その初期において日本が破竹の快進撃を見せて、インドネシアを含む東南アジア諸国から欧米の植民地支配が一掃されると、彼らにも独立の気運が高まった。
白い人々に何百年も支配されるが
やがて北の方から黄色い人たちが
攻めてきて追い出してくれる
これは12世紀前半に東ジャワのクディリ王国最盛期をもたらしたジョヨボヨ王が書いた
パラタユダ
という民族の叙事詩にある一説であるが、その予言どおりにやってきた日本軍は、植民地支配からの解放の戦士として、各地で熱狂的な歓迎を受けた。
そして日本の施策は欧米諸国の植民地支配と真逆のものだった。
投獄されていた独立運動家の解放
教育制度の復活
民族間対立の解消
殖産興業の奨励と援助
義勇軍(PETAA)の創設
軍事訓練の実施
など、インドネシアの独立の基礎を築くもので満ち溢れていた。
独立運動のリーダーとして流刑処分を受けていたスカルノ氏(後のインドネシア初代大統領)も、解放されると日本に将来の独立を託し、日本軍に全面協力するようになった。
しかしその後日本が連合軍に無条件降伏して敗戦すると、再びかつての宗主国オランダが再植民地化を図ろうとインドネシアに進出しようとした。
ところがわずか3年ほどの日本統治時代に、インドネシア人はかつての愚民化政策等から解放されて独立の気運は高まっていた。
そして義勇軍も組織されていたこともあり、彼らはインドネシアに再侵攻してきたオランダやイギリスに激しく抵抗した。
いわゆるインドネシア独立戦争である。
当時インドネシアには、復員せずにインドネシアに留まり、インドネシアの独立を支援する旧日本軍関係者が少なからずおり、彼らの支援と実戦への参加は心強いものとなっていた。
そのような残留日本軍のなかには、かつて宣伝班として赴任してきた人たちもいた。
当初その目的は日本軍の活躍を日本本土の日本人に宣伝して国民の戦意高揚を図るものであった。
1942年3月にジャワ島へ派遣された山形県庄内出身の
金子 智一 28歳
もそのひとりだった。
彼はその島の宣伝班部隊副班長として赴任し、その業務に邁進する中、それまでインドネシア人が経験してきた過酷な植民地支配を聞き驚愕した。
当時彼ら地元住民の平均寿命は35歳とまで言われていた。
人を人とも思わぬような欧米の弾圧に打ちひしがれてきた彼らに深く同情した。
そして、ひと一倍その改善に尽力する一方、本来南方系住民の持つ穏やかでおおらかな彼らの人柄にも惹かれていった。
この国を独立させて
人々に幸せをもたらしてやりたい
インドネシアが独立するまでは
日本に帰らない
金子は、強く心に思うところとなった。
しかし日本が敗退して、インドネシアが連合国側の支配下に置かれ、オランダ軍やイギリス軍が進駐してくると、金子は軍の上司にあたる馬渕少将と相談し、軍票や宝石類など軍が保有していた換金できるものを全て処分し、独立推進団体「アンカタン・ムダ」に手渡した。
その時グループのリーダーだったアブドル・ハミットは、金子に対してこう言った。
金子さん
我々は日本人から多くの施しを受けた
独立するためには力が必要であること
を教えられ、軍事訓練も受けて
戦う気概や装備も十分できた
ましてやたくさんの経済的支援も
受けてきた
ここから先は、どんなことがあっても
我々インドネシア人の力で独立を
勝ち取る
たとえどんなに時間がかかっても
だからあなたは日本に帰って欲しい
そして今度は荒れ果てた
自国の再建に尽力してほしい
もうあなたは十分インドネシア
のために尽くしてくれた
このまま、ここに留まればあなたも
進駐して来た連合軍に独立支援した
容疑で捕まり日本に帰れなくなる
と言った。
その言葉は、インドネシアの独立を見届けるまで帰らないという決意はありながらも、一刻も早く日本に帰り荒廃した祖国の再建に貢献したいという思いも抱えた金子を後押しするものだった。
ハミットからそのように言われ、後ろ髪を引かれる思いで帰国の気持ちを固めた金子だったが、1946年1月5日夜、連合軍により突然金子は身柄を拘束された。
奇しくも彼の32歳の誕生日だった。
その後ジャカルタ市内のグルドッグ刑務所に収監された金子だったが、そこには、日本人800人とインドネシア人1400人くらいがおり、いずれも独立運動のリーダー格の人たちだった。
インドネシア独立の気運は遠のいたかに見えた。
しかし金子は違った。
逆にインドネシアに骨を埋める覚悟を決め、その収容所を独立運動闘争の拠点とすることを決意した。
連日の過酷な取り調べにも堪え、イギリス人取調官が
独立に協力したな
と問われ、その役割等を尋問されれば
協力しましたよ
とその容疑を堂々と認めつつも
ではあなた方に問いたい
もともとインドネシアは誰のものか
インドネシア人のものではないか
そのインドネシアが独立して
何が悪いのか
と逆に詰め寄るなど、決して自らの主張を崩すことはなかった。
取り調べは、彼の主張を朗々と述べる場となった。
金子は独房に帰ってからもインドネシア国歌の「インドネシア・ラヤ」を大声で歌い、それに同調したインドネシア収監者たちも大合唱するところとなった。
また金子のインドネシア国歌に感動したインドネシア人は、当時日本人がよく歌っていた「愛国の花」を日本語で歌い始め、看守の制止にもかかわらず、収容所内は騒然となることがあった。
この歌は、軍歌ではあるものの、銃後で家庭を守る婦女子の苦労を偲ばせるものだ。
インドネシア独立に尽力してきたが、帰国の希望も絶たれた日本人収容者に対する憐憫の情から自然と出てきたものだったのだろう。
金子は彼らが歌ってくれた「愛国の花」に故郷を思い、独房でひとり涙にくれた。
インドネシア人は絶対にオランダの歌は歌わなかった。
でも「愛国の花」を日本語で歌ってくれた。
彼らの思いが嬉しかった。
その後インドネシア独立戦争が長引き、世界的批判を浴びるようになると、次第にオランダはインドネシアから手を引かざるを得ない状況に追い込まれていった。
このため、収監されていた多くの日本人も解放され、金子も再び日本の土を踏むことができた。
終戦後もインドネシアに残り、その独立のためにオランダと戦った多くの日本人将兵もおり、およそ1000人が戦死している。
彼らは異国の地で手厚く葬られている。
独立後、インドネシアには国歌のほかに準国家、つまり国家の次に最大の敬意を払う歌として「愛国の花」が取り入れられ、それは今でも国民に歌われている。
これは、インドネシア独立に貢献した日本人収監者や独立戦争で命を落とした日本人将兵に、今でも多くのインドネシア人が思いを寄せていることにほかならない。
現在この国は経済進出も著しい中国と近づきつつあり、日本との高速鉄道ビジネスを反故にして中国に寝返るなど、かつての親日国としての印象は薄れつつある感もするが、それでもこの準国歌はその後インドネシア語にも訳されて愛唱されている。
ただその苦難の歴史や日本に対する感謝の念を教え伝えられてきた多くの国民は今でも日本語で歌っているらしい。
歴史を正しく継承している姿がここにある。
他方日本はどうだろうか。
戦後日本は自虐史観一色に塗り込まれた。
今でも多くの日本人が先の大戦の記憶を
日本は東南アジア諸国に
多大な迷惑をかけた
という偏向した考えに取りつかれている。
政治家でさえ世論を気にしてその考えから抜け出せず、東南アジア諸国を歴訪する折は定番の「謝罪外交」を繰り返している。
一時政権を担った村山富市首相と土井孝子衆議院議長に至っては、マレーシアのマハティール首相などから
なぜ日本はいつまでも昔のことを
謝っているか
我々はあなた方の国を手本として
歩んできたのに
と諫められ、返す言葉もなかったらしい。
人によっては
日本も資源が欲しくて
東南アジア諸国に進出した
だけではないか
と考えるかもしれない。
確かに先の大戦前、日本はいわゆるABCD包囲網を引かれて、石油の一滴も輸入できなくなるという国家存亡の危機に立たされた。
このため東南アジア諸国の南方資源に頼らざるを得なかった。
それは日本にとって現実的な死活問題だった。
ただ日本の場合、欧米のような一方的な搾取と弾圧ではなく、ともに栄えるという
大東亜共栄圏
の精神が根底にあった。
その精神に基づいて、進出した東南アジア諸国では、教育制度の拡充、インフラの整備、独立の気運の醸成に尽力し、それがその後の独立に資するところとなったが、なぜか戦後日本で評価されることはなかった。
「大東亜共栄圏」という言葉だけを切り取って、まるで戦前の日本の悪の権化の思想のような取り扱いを受けるようになった。
自虐史観の観点にそぐわないものは、日本人自らが歴史に封印をしてしまった。
東南アジア諸国の人たちは日本統治時代を評価し、懐かしむ人たちが多いのに、自虐史観と矛盾することとなるからだろう。
そしてそのような時代を生きた人たちの多くが故人となってきつつあり、少しずつ正しい歴史が風化していくことが残念だ。
これを打破するためには、我々日本人も、こうした先人たちの素晴らしい活躍にも目を向けて、まず日本人としての誇りを取り戻すべきだ。
この国の国旗は、赤と白の上下二段の横縞模様のシンプルなものだが、デザインは違うものの日本の国旗も赤と白のシンプルなものだ。
同じ色彩の国旗を持つ国同士、歴史を真摯に振り返り、未来に向かって歩んで行く時ではないだろうか。
ただ過去を謝罪するだけでは何も進まない。
1988年8月17日、スハルト大統領はインドネシアの最高勲章である
ナラリア勲章(独立名誉勲章)
を金子に授与した。
金子は、戦後日本でユースホステル事業を始めて全国に展開させた人としても知られている。
趣味のウォーキングが高じて、日本ウォーキング協会の顧問を務めるまでになり、日本全国や世界各地を渡り歩きながら民間人として国際交流にも努めたことから
地球を2周半歩いた男
と言われるまでになった。
独自の手法で戦後の日本再建に余生をかけた氏は、平成14年(2002年)に亡くなっている。
ただただその功績に深謝するとともに、日本人として誇りに思う。
かつての日本には、このような日本人がいた。
そして、真の国際人でもあった。
自虐史観からは決して見えてこない、戦前の誇り高き日本人の姿がここにある。
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