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国を背負って戦うとは

フランスって、黒人の国だったっけ?


 熱戦が繰り広げられているパリ・オリンピック。
 やはり国同士のメダルをかけての戦いとなれば、世界中どこでも自国のために熱くなるだろう。
 それが国技、もしくはそれに近いものとなればなおさらだ。
 
 日本の場合、柔道がまさにそれだ。
 柔道は、1964年に初めてアジアで開かれた東京オリンピックで正式種目となった。
 ちなみに、この大会は
   有色人種国家における史上初の開催
でもあった。
 1964年と言えば、先の大戦で国土のほとんどを焼野原とされ終戦となった1945年から20年足らずである。
 そのわずか20年の間に、インフラは完全に復興する、経済は立ち直る、おまけに当時世界最速の新幹線まで開業すると、世界が驚愕する復興ぶりであった。
 白人国家からしてみれば、有色人種の親玉的存在で、いち早く人種差別撤廃を声高に主張していた日本が、戦後わずか20年も経たないうちに見事に復活し、オリンピックを開催するに至ったのである。
 まさに
   日はまた昇る
である。
 その大会で、有色人種国として初の開催を勝ち得たことや、柔道を正式種目として取り入れられたことは、スポーツ界における有色人種や日本の立ち位置を飛躍的に高めたと言ってもいいだろう。
 また、それはアジア・アフリカ諸国などの発展途上国に再び希望を与える大きな光ともなったであろうことは想像に難くない。
 あれほど国土を蹂躙されながらも、わずか20年で日本は立ち直った。
 我々にもできないはずはないと・・・

 その後柔道は国際スポーツとしての人気を高め、以後の大会でも正式種目として継続し、現在に至っている。
 しかし国際的なスポーツとなった柔道は、次第に日本古来の
   柔よく剛を制す
という武道としての要素が弱くなり、体重別のレスリングのようになってしまった。
 おまけに「指導」という、訳の分からないポイント制まで導入されて「国際柔道」となってしまい、青い柔道着まで出てくる始末。
 本来の柔道を知る者(恥ずかしながら高校時代にほんの少しかじった程度ではあるが・・・)からすれば、つまらない 「競技」になった感が強い。
 
 それでも日本柔道界は発祥地のプライドを胸に、国際柔道のルールに苦しみながらも、これまでの大会で「お家芸」にふさわしい成績を残してきた。

 一方、今回開催地となったフランスでも柔道の人気は非常に高く、最近の国際大会では日本より上位の成績を残している階級も少なからずあるなど、決して侮れない相手である。
 何せ現在実際に柔道をしている人口からすれば、日本の約20万人に対して、フランスは約80万人と約4倍である。
 必修科目として教えている公立学校もあれば、女性でも護身術として習っている人も多いらしい。
 現在フランス人に人気のあるスポーツは1位サッカー2位テニスで、それに続く第3位は柔道となっており、この国においても柔道はまさに国技に近い存在となっている。

 フランスという国は近世以降、日本の文化・芸術にも造詣が深く、日本に対して尊敬の念を抱いているらしいが、柔道についても
   礼に始まり礼に終わる
という作法に東洋的神秘性を感じるらしく、それも柔道に人気がある理由のひとつとなっているらしい。
 柔道にそのような魅力を感じて国家的なレベルで、その強化に取り組んでいるのも好感が持てる。
    ちなみに私の愛車はプジョーでもある。
    だからフランスは他の西欧諸国に比べて少しだけ思い入れがある。

 ただし、勝負事となれば話は別だ。
 それが団体戦ともなれば、個人戦と違い、国家間の総力をあげた戦いという感じが強くなる。
 このため、各国とも各階級ベストなメンバーで臨んでくる。
 団体戦は、まさに国同士の「平和な戦い」なのだ。
 そうなれば、日本としても発祥の地として負けられない。

 そして迎えた今回の団体戦決勝。
 くしくもその相手は、先の東京オリンピックと同じ、まさにそのフランスであった。
 畳にあがった両チームの顔ぶれを眺める。
   あれっ?
   全部黒人じゃん?
   本当にフランスチーム?
 そう感じた方も多いだろう。
 ただ、私は別に黒人を差別しているのではない。 
 移民を受け入れている国だし、かってはアフリカに多くの植民地を有していたという歴史的背景もあるから、黒人が選手として出てもおかしくはないと思うが、だけどフランスってもともと白人の国じゃなかったの?
 どうしても、エッフェル塔のもとシャンゼリゼ通りを颯爽と歩くパリジェンヌという絵を書いてしまう私としては、何か違和感を感じる。
 
 そう思いながらも、テレビの前で勝負の行方を固唾をのんで見守った。
 結果は代表選にもつれ込む接戦の末、フランスの勝利。 
 東京オリンピックと同じ結果となって、日本の雪辱とはならなかった。

 この結果については、試合後ネット上で、やれ
   代表戦の電子ルーレットという方法
   が透明性に欠ける
とか
   阿部一二三選手にかけられた技は
   タックルだ、レスリング技だ
   相手に三つ目の指導がなぜ
   出なかったのか
など批判も相次いだが、負けは負けだ。
 結果については、潔く認めるしかないだろう。

 ところが私が気になったのは、試合後の様子だった。
 試合が終わると、どこにいたのか柔道着の白人フランス選手が畳に上がってきて、代表選手と肩を組み合って勝利を喜んでいるではないか。
 そしてメディアに溢れた写真は、下のような写真がメインだった。

この白人選手どこにいたの?

 まあ、団体戦の代表になったのがたまたま黒人だった。
 白人の選手もいるのだということをアピールしたかったのだろうが、白人としての意地やプライドなどないのだろうか?
 なぜ本来のフランス人が代表に一人もいないのか?
 これがもし逆で、日本の選手が全員黒人だったら、フランスのようにもろ手を挙げて喜べるだろうか・・・
 結果はさておき、なんとも後味の悪い演出がかったシーンだった。

 ただ、そうは言っても世はまさにグローバリゼーションの時代で、スポーツ界もそれは同じだ。
 日本で人気のサッカーや野球などのプロスポーツ界はもとより、国技の相撲に至るまで、選手や力士はもとより、監督、コーチ、親方に至るまで国際化が進んでいる。
 競技によっては、力のある選手はさらに高みを目指して海外に進出し、より強くなっていく。
 そして、国際試合ではそうしなければ勝てない時代となってきた。
 だから、フランスチームが全員黒人だからと言って批判するのは的外れかもしれない。
 でも何かスッキリしない・・・
 しかしそのことにあまり目くじらを立てれば、逆に
   グローバリゼーションを受け入れない
   差別主義者
という批判にさらされかねない。
 そうなのだ、グローバリゼーションは
   民族による差別をしない
という聞こえのよいSDGsをまとって、その本質を隠している。

 このままスポーツ界も、グローバリゼーションが進めば、それこそどこの国も勝利のために、人種の壁を越えて、金の力や、甘言勧誘で優秀な選手を全世界から集めるだろう。
 そして国籍を取らせて自国民とし、国旗を掲揚台に挙げることに執着するだろう。
 そうなったら、本来のオリンピック精神から遠ざかっていくのではないだろうか。
 そこでメダルを取って、国旗掲揚されることに意味があるだろうか。
 勝ち取ったメダルは、単に選手その人の才能や資質に対して授けられるものとなって、もはや、どこの国の人なのかということを表彰しても意味がないのではないだろうか。

 確かにオリンピックに平和の祭典としての効能が無いとは言わない。
 そして、出場する選手たちからすれば、オリンピックに出るということは、ほかの世界大会と違い特別な価値観もあるだろう。
 戦いが終わり、相互に肩を抱き合い、お互いの健闘をたたえ合う姿は「平和な戦い」そのものだ。

 ただ、ここまでグローバリゼーション化が進めば、もはや国別で戦う意味が分からなくなる。
    ことここに至っては、出場する選手は、選手本来の出身国に限定するというようなルールを作ったほうが、オリンピックの理念にも合致するような気がする。
 
 世界にはいろいろな民族がおり、そしてそれぞれが固有の豊かな文化を持っており、築いてきた歴史や文化の違いがある。
 だから世界は多様性があっておもしろい。
 ところがグローバリゼーションは、この民族の多様性を否定する方向に動いている。

 欧米諸国は近世以降、大航海時代や産業革命、それに続く植民地政策等によってアジア、アフリカ、北南米諸国などを簒奪し、本来それぞれの国にいた民族を
   先住民族とか原住民
と蔑視して、歴史の表舞台から消し去った。
 北米大陸は、本来「インディアン」と間違った呼称で呼ばれるようになったネイティブ・アメリカンのものだった。
 南米大陸も、現在のようなスペインやポルトガル系の人の国ではなく、高度な文明を持ったアステカやインカなどに暮らす人々の国であった。
 アジア諸国も欧米の植民地政策の標的となって、その資源をむしり取られて疲弊し、次第に民族としての誇りを失い
   白人にはかなわない
という先入観をインプットされた。
 アフリカに至っては、その人的資源をまるで牛馬のように奴隷として簒奪された。
     グローバリゼーションの大きな流れを作ったのはまさに欧米諸国であった。
 ただ、そのような世界情勢のなかにあって、有色人種の国として唯一欧米列強と渡り合ったのは我が日本だけだった。
 そしてその力は、スポーツ界においてもいかなく発揮され、日本人はスポーツ界においてもけっして侮れない民族だった。

 ところが、二度の世界大戦も終わり、以前より平和な時代が続くようになると、国威発揚の場所は少なくなってきた。
 その場所は、オリンピックをはじめとしたスポーツの場に移り、そこで勝利することが国民の国家への帰属意識を強めるとことになることに気づいた世界各国は、それを大いに利用した。
 特に第二次世界大戦後に頭角を現したソ連とその傘下となった東欧の共産主義国家は、オリンピックでメダルを取ることを国家目標として掲げて、共産主義社会がいかに優れた社会であるか世界に喧伝するために最大限に利用した。
 また欧米の民主主義国家も、経済的に世界を席巻したものの、種目では有色人種にかなわないものもあることが分かってきた。
 そこで、有色人種に自分たちの国籍を与えて自国民として、オリンピックで活躍させて国威発揚の道具として利用するという狡猾な方法を考えた。

 まずアメリカが、奴隷制度の名残を引きずりながら自国民としてしまった黒人の身体能力の高さを利用することを考えた。
 優れた能力の持ち主にアメリカ市民としての地位と名誉を与え、彼らが得意とする陸上競技で世界を席巻した。
 オリンピックで陸上競技と言えば、そのほとんどがアメリカの黒人選手という一時代を築いた。
 その後、移民政策を取り入れた西欧諸国もアメリカをまねて、移民として流入した外国人に国籍を与えて自国のために活躍させた。
 彼ら黒人をはじめとした有色人種は、アメリカ人やフランス人、ドイツ人などととなって、いろいろな競技で大活躍し、雇われ国家のためにひたすらメダルを取ることに邁進するところとなった。
 もはやオリンピックは、本来の民族のプライドは投げ捨てながらも、国家としてのプライドにはこだわるという歪んだものになっている。
  
 そのような時代になったのであれば、もう国レベルのスポーツの戦いにあまり意味はないのではないだろうか。
 おまけに、もうそろそろ商業主義に汚染されたオリンピック・ショーを見るのも飽きてきた。

 ただそうは言っても、世の中しょせん金で人は動く。
 よほどのことがない限り、現在のオリンピックスタイルは続くであろう。

 そうであれば、日本古来の武芸などは、これ以上世界的種目にすべきではない。
 柔道が変質してしまったように、本来の日本らしさが失われた、単なる
   スポーツ
になってしまいかねない。
 弓道、剣道、なぎなたなど、日本独自の武芸は、日本だけで守っていけばよい。
 オリンピック種目ともなれば、柔道のようにその本質が変わってしまう。
 
 また、もうオリンピックで
   国を背負って戦う
という言葉も死語になったのかもしれない。
    メダルを取った日本人選手のインタビューで聞かれるコメントも
            お世話になった人に恩返しができた
というものはあっても、応援してくれた一般国民に対して感謝の言葉を述べたり、また日本人であることに誇りを感じるというようなものはあまりない。 
    まあ現在の教育が、そのようなものに重きを置いていないので致し方ないかもしれないが・・・
 左がかったメディアも、あれだけ日の丸や国歌斉唱に難癖をつけながらも、なぜかオリンピックとなると、日本人選手が表彰台で金メダルをさげて日の丸の伴奏で国旗が掲揚されれば、その様子を
   欣喜雀躍
と報道するが、彼らが撮りたがる絵はメダルを取った本人であり、決して国家を背負って戦ったという姿ではない。
 メディアにとって、国歌や国旗は単なる風景でしかない。

 でも、選手たちは
   国を背負って戦った
という思いがあったきこそ、大きな力を発揮できたのではないかとも思うが、誰もそのことはあまり口にしない。

 しかし移民を受け入れている国では、その国を思う思いも、いかようにも変えられる時代となっている。

 ただ国籍を変えても、人にはそれぞれ本来の国があるはずだ。
 そしてそこには民族の誇りがあるはずだ。
 その本来の民族の誇りを胸に戦うほうが、オリンピックらしくなると思うのは私だけだろうか。 

    そんなことを考えながら、オリンピック中継を眺めていたら、卓球の女子団体ペア戦をやっていた。
 ところが相手はドイツと表示されているものの、どう見てもアジア人、しかも中国人っぽい。
    中継を聞いていると予想にたがわず、ドイツに国籍を代えた中国人であることが分かった。
     試合の結果は、日本の勝利。
     勝つた日本が決勝で戦う相手は中国らしい。
    今度は手強い「本物」だ。    
    もうオリンピックには国境さえない。
 思想の違いさえ乗り越えて勝負にこだわる。
 ますます悲しくなった。 

  
 


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