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vol.164 ハートをオープンにするとはどういうことか?

昨日、とある対話の会で、『ハートをオープンにするとはどういうことか?』というのが話題になりました。

ハートをオープンにするとは、心を開いていくこと。
しかし、その具体的な状況をもうすこし解像度をあげて考えてみることにします。

私は、ここでのポイントは、自分が外部に対してハートをオープンにすることには、①自分の表現の部分と②他者の受容の部分の2つにわけられるのではないかと考えました。

例えば、幼児の振る舞いを観察してみます。幼児はまわりに対して、忖度や計算なく、主張したいことを主張します。したいこと、たべたいもの、好き嫌いのすべてを正直に表現します。大人から見れば大人げなかったり、わがままに見えたり、それはちょっとどうかなということも遠慮なく人目を気にすることなく平気でやったりしますよね。ここに①の意味でのオープンハート性はあるかと思います。

しかし、そのままの状態で大人になった場合、かなり迷惑な人だなという印象は免れなくなることでしょう。もちろん、大人であっても子ども心を忘れず、堂々と楽しく自己表現する大人もいますが・・・

さて、②の側面でのオープンハート性は、あまり語られてこなかったと思うのです。つまり、自分の外側の人の振る舞いをどう受け取るかという視座です。他者に対してオープンハートであるとは、受容力があるということ。それは「不快や悪意の在ることを含めてなんでもかんで無理してでも我慢して許しなさい」という意味ではなく、「広い心で許せる」といった観点です。

例えば簡単な例で、父と息子の2人が旅行を企画して話し合いをしていたとしましょう。2人は①の点で、忖度せずに自分の行きたいとことを主張していたとします。しかし、ここで父の反応は2つに分かれます。息子と同レベルで絶対に譲らない、息子の主張は受け入れないという姿勢。もう一つは、「まぁ今回は息子の行きたいところがあるならそれでいいんじゃないかな。自分は自分で別の機会にそこに行ってみればいいことだし」というような姿勢。後者が受容力という点でのオープンハートだと思うわけです。

許すというのは、言うのは簡単で実行は難しい行為です。これができれば世界から戦争は無くなりますが、太古から現在まで争いは止みません。また、自分の主義主張や慣習に合わない人は排除したいという心理が働くのも人間です。

他人からの耳が痛い忠告について、真摯に受け取るみたいなことも、オープンハートに外なりません。小さなことからスタートできそうですね。

地球人類が今後さらに精神的な進化をしていくことを前提にするならば、自分の外に存在する人への受容の精神であるオープンハート、許しというものはさらに注目され、加速していくのだと思います。


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