チリサーモンの加工場で働いた男の話
さて、最近は何かと居候話になっていたので、今回は本来の主たる活動であるチリサーモンについて、特に現地と日本の価格差について書いていこうと思う。何もぼくだって、久しぶりの女性との暮らしに鼻の下を伸ばして家事代行に徹していたわけではない(ちょっと伸びてた)。
チリサーモンは、割合としてはほとんどが他国に輸出されるが、もちろん国内でも消費されている。街のレストランの立て看板には、だいたい「Salmón(サーモン)」文字が記してある。しかしこのサーモン、めちゃくちゃ高い。自分の財布が寂しいというのもあるけれど、それを差し引いても高い。実際いくらなのかというと、サーモンのムニエルが約1000円。さすがに、切り身の大きさは吉野家の鮭定食の二倍くらいはあるが、吉野家はそれに白米と味噌汁と牛皿も付いて500円だ。チリでサーモンを選ばないのは、単純に高いから。
チリ人美女(と言っておく)の家に居候しているあいだ、漁民への取材をすすめたほか、日系商社の社員(Mとしておく)にも取材した。会社名・氏名は明かさない約束だったので、伏せておく。現地コーディネーターとして、日本向けの買い付けで協働している男性(K)も同席した。二人はともに、幼少期からだいたい成人になるまでを日本で過ごした人物だった。
二人からはサーモン養殖業界の動向や、詳しく知らなかった労働組合の話を聞いた。特に現地コーディネーターの男性Kは、日本からチリに移住したのちにサーモンの加工プラントで働いた経験があり、内情を知っていた。
彼はブラジル生まれで、幼少から二十歳になるまでを日本で過ごした。日本語を明るく流暢に話すKだが、実は人見知りらしい。2011年、父親の妹が暮らしていたチリ・ロスラゴス州に家族4人で移り住む。父はショップングモール内の美容師として働いたが、貯金を切り崩しながらの生活だった。ところが、唯一の稼ぎ頭であった父が年末に急逝。彼はサーモンの加工プラントで派遣社員として働くようになる。たまたま当時の借家の目の前に、養殖業界の有権者がすんでいて、派遣会社の紹介を受けた。
プラントでは約6年間働いた。工場で働く派遣社員といえば、サーモン産業の中では、かなり給与が低い方だ。誤解を恐れずいえば、底辺と言える。そこでの仕事は「ただただ辛かった」らしい。
給与は12年当時で、朝8時から24時まで働いて月給30万チリペソ。これは12年のレートでいくと、4万5000円くらいの額だ。「お金が足りなかった。当時は組合も残業のリミットを設けてなかったので、チャンスだと思って残業しまくって夜のシフトも入ってほぼ20時間働いていた。妹もいて、ぼくの20万ペソが家賃、お母さんが稼ぐ20万ペソで生活する暮らし」とふりかえる。10万余分に稼げば、外で食事に行けた。
今は最低賃金も上がり、30万〜35万ペソは稼げる仕事らしい。労働組合と会社の間では1〜3年に一回、労働条件を交渉する機会がある。プラントでストライキが起きれば、サーモンの鮮度はすぐに落ちる。それはそのまま事業者の損失につながる。
それでも、産業内で賃金が低いことに変わりはない。脇に座っている商社の男性は「これがサーモンの現実です。それが月曜日から土曜日。なぜ働いているかというと、本当に困っているから。今まではじゃがいもとかを育てて暮らしていけたけど、それじゃ生きていけない」と話す。
取材をしながら、ぼくは回転寿司で踊るサーモンを思い浮かべていた。チリサーモンが悪しき食品だとは思わない。Kにとってプラントでの労働は辛いものだったが、何とか食いつないでいけた。ただ、安いものにはワケがあるとはよくいったもので、日本で消費されるサーモンも「訳あり商品」なんだろうなと、率直に感じていた。