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#12 ぼんやりした頭で


咳と頭痛で目が覚め、漠然とした具合の悪さで眠りにつけない。コロナウイルスよりも、むしろここまで貧弱坊やな自分に腹が立ってくる。


私はあまり自分のことが好きではない。もっと詳しく言うと、自分を好きにならないことで本気の致命傷を避けて生きようとしているきらいがある。

根底にある自分は独善的な部分が強い。自分らしくあれという言葉を鵜呑みにして生きていると、それが社会において調和を乱し、除け者にされる。経験に基づき評すなら、自分勝手で好かれないタイプの人間。それが私の本質。

そのくせ、というか、そうであったからというべきなのか、人の仕草や話し方を分析する癖がいつからかついた。嫌われないために、だ。

外側から他人をみて、話してみて、目配せや言葉の置き方、仕草でどこまで踏み込んでいいのか、どんなテンポ感で話せば不快にさせずにすむのか。ある程度のパターンに振り分けてその人にあった対応を心がける。自分の意見も、相手が同意しない可能性があるものは言わない。そうやって作り上げたデータのもと、いつも後出しジャンケンであいこにして事なきを得る。


随分と打算的な人間になってしまった。そしてそんな打算も、繰り返していると自然になり、今となっては本心の一部と化してきた。"人当たりのいい人間"に擬態することが最早自然で、半分本心で、上手になってしまったが故に自分に愛情を傾けてくれる人たちが周りに少しずつ増えてきた。心から愛しいと思える人が、少しずつ増えてきた。


そうして勘違いしてしまったときに、ふと自分から歩み寄ってみたいと思う気持ちが強くなるときが来てしまう。

そして思い知る。自分がいかに空虚であるかを。
分析が足りず、データ不足なのにも関わらず、愛情や親近感だけで近づこうと思うと、何をしていいのかわからなくなる。何を与えて、何をもらって、何を返せばいいのか、ずっと後出しで生きてきたから、ぶつかることを恐れ、あるはずのない整合性を必死に探して訳のわからない接し方をしてしまう。


うまくいかなくなって、落ち込んで、手を伸ばし求めたもの指の間をすり抜け、離れていったときに再確認する。

自分はそもそも好かれるような人間じゃない、今までは傾向と対策がたまたまうまくいっただけ。

そう思えば後悔も恥辱の念も、時間と共に風化してくれる。
傷がつけば、見えなくなるまで削ればいい。形が残れば、それでいい。



ふと不安になる。
打算で手に入ってしまった身に余る愛しい人たちを、いつか勘違いした自分がその手で壊してしまうんじゃないか。

もとより愛される人間だと誤認しきってしまったとき、全て失うんじゃないか。


失いたくないと思う気持ちが強くなりすぎた。
失いたくないと思うものが、増えすぎた。


音楽を、曲を作り歌うのは、本心で生きていたいという自分の願いなのかもしれない。実際に、伝えきれずにいた気持ちを形にして区切りをつけるように、曲は出来上がる。

だから自分の音楽を好いてくれるひとは問答無用で大好きだ。そんな気は受け取り手にはサラサラないとは思うけれど、自分が自分であることを認めてくれてると勝手に感じてしまう。
伝えきれている自信はないけれど、本当に感謝しています。
いつも本当に、本当にありがとうございます。


色々と忙しくなるだろうし、大変なことに変わりはないが音楽は絶対に辞めないし、もっといろんな人に聴いてもらえるようにこれから動いていこうと思ってる。

いつか少し大きな場所で、世間に認知された自分がそこで誰かのために何かを残せたとき。そのときが、打算で手に入れてしまった、失いたくない愛しさに、正面で向き合って恩返しができるときだと思ってるから。

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