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ログハウスと秋風のサパー

 先ほどまで美術館にいたはずなのに、今は見知らぬ誰かの家の中にいる。ログハウス。窓の外からは暖かな午後の日差しが差し込んでいる。
「ちょっとだけ話し相手になってくれませんか?」初老の優しげな男性は、そんな風に言った。手にはポットを持っていて、お茶を淹れようとしている。
 どうしてこうなったんだったっけ? 覚えているのは、美術館の白い壁に、急に現れた扉。これも展示のひとつなのだろうかと思った。どんな仕組みになっているんだろうと考えながら扉を開いて──。

 気がついたらここにいた。
 今は部屋の中の椅子に座っている。木の匂いと、男性が淹れる、おそらく紅茶の匂い。その二つが絶妙に混ざって、心地いい空間を演出する。
 ティーカップに注がれる紅茶の音。ゆっくりと立ち上る湯気。それに溶ける午後の日差し。
 ここまで落ち着いた時間を過ごすのは久しぶりだ。最近はずっと忙しさに追われて、ひと息つく暇もなかった。胸いっぱいに空気を吸い込む。
「おまたせしました。一緒にこちらもどうですか?」
 テーブルの上に置かれたのは、夕焼けみたいなコーラルピンクの紅茶と、チョコがけチュロッキーだった。真っ白なお皿の上に載るその姿。星型に絞り出されたのち、美しい黄金色に揚げられ、シュガーコーティングをまとい、あろうことかチョコレートまでかかっている。
「これも頂いていいんですか?」
「ええ、どうぞ」
 わ、と声が漏れる。いただきます、と手を合わせ、まずは紅茶を一口。花畑の中に頭から飛び込んだみたいな香り。それでいて強烈さは無く、心地いい広がり。微かな渋みと甘味。おいしい。
 続けてチュロッキー。情緒もへったくれもないな、と思いながら一口齧ろうとして、気づく。
「このチュロッキー、何か生地に混ぜてあるんですか?」
 表面に黄金色で糸状の模様が付いている。
「分かりますか? これは秋の午後の日差しを混ぜ込んであるんです」
「午後の日差しを、ですか?」
「はい」
 男性は嬉しそうに話し始めた。

 この場所はほとんど誰も来ないんですがね、時々あなたみたいな人が迷い込んでくるんです。そんな人のためにこれを作ったんです。
 何度も何度も日差しを引き伸ばして丸めてを繰り返し、その粒子をより細かく、クリーミーになるようにします。それを、生地を揚げる直前に一緒に混ぜてやるんです。そのタイミングが肝なんですが!今回はうまく作れてよかったです。

 この男性は、私みたいに迷い込んでくる人のことを本当に心待ちにしているんだな、と思った。
 忘れてしまいそうになるけれど、この空間は美術館の中の展示品だ。
 どんな理由があってこうなっているかは分からないけれど、きっと滅多に起こらないことなんだろう。だからこそ、こんなにも嬉しそうなんだ。
 微笑みながら自分用に淹れた紅茶を飲んでいる姿を見ていると、こちらまで嬉しくなってしまう。
「ここにはいつから住んでいるんですか?」
 私は彼に聞いてみることにした。少し開いた目をこちらに向け、やがて頬を綻ばせながら語り始めた。
「ここにやって来たのはまだ随分若い頃だったんですがね……」
 木の匂いは深みを増し、午後の日差しが一層輝いている。どこからか少し冷たい風が入り込んできて、部屋の温度とゆっくり混ざる。


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