【自立と孤立】トンカツ屋の空のソース容器
こんにちは、トンカツを好きなときに食べられることに幸せを感じます、カタカナ3文字で「タケル」です。
今日は、お昼ごはんにトンカツ屋さんでトンカツ定食を食べました。午前中の仕事を頑張ったご褒美、午後の仕事を頑張れるように燃料補給、こうやって理由を挙げると、自身の幼さが見えて恥ずかしいですね。
楽しみにトンカツの出来上がりを待つ間、目の前のソース置き場のソースが少ないことに気づきました。一人前のトンカツにかけるには足りない量でした。
私は少し迷って、入っていた分のソースをかけ切り、空の容器を持って補充のお願いに行きました。どうやら、すぐには補充できなかったようで、テイクアウト用のエリアからソースを一本取って渡してもらえました。すぐにできないことをお願いしてしまったと、申し訳ない気持ちになってしまいました。
対して、他のお客さんは自分の席のソースが少なくなっていたら、隣の席のソース置き場にある、十分に入ったソースを使っていたのです。
この差が、私に「自立と孤立」の境目を問いかけてきました。他のお客さんは「ソースが無い」という問題を、一人で解決しました。私は「ソースが無い」という問題の解決を、店員さんに委ねました。どちらが自立しているかと言われると、単純に考えれば一人で解決した「他のお客さん」でしょう。
ただ、そのお客さんがソースを取ったタイミングに違和感を感じました。というのも、そのお客さんは、ソースが十分にある席のお客さんが、食べ終わって席を立った後に、その席のソースを取ったのです。誰にも迷惑をかけない完璧なタイミングです。
しかし、その時までトンカツを食べなかったのかなと思うと、「自立」というのはここまで来ると「孤立」なのではないかと思えるようになってきました。
「社会」はニンゲンひとりひとりに「自立」を求めます。人に頼らず生きていけるようになることを求めます。それがゆえに、「人に頼ること」を「迷惑をかけること」と考えるようになってしまうのではないでしょうか。人に頼ることは、一人前の人間がすることじゃないのだと。
寂しいじゃないですか。「ソース使ってもいいですか」、「どうぞ」、「ありがとうございます」と一往復するだけの会話が、「迷惑」だと考えるがゆえに億劫になってしまってることが。
私は、確かに店員さんに手間をかけさせてしまいました。ただ、「すみません、ソースの補充いいですか」、「すみません、このソースでいいですか」、「はい、ありがとうございます」と交わしたこの一瞬に、人との繋がりを感じ、トンカツがよりいっそう美味しく感じました。
「自分でできることは自分でなんとかする」というのは、いかにも当たり前のことのように思えますが、「誰かに頼る」ということを忘れさせ、人を「孤立」へと導く呪いなのかもしれません。
人が繋がりを失い、「ありがとう」という機会が、本当に有り難くなっているこの社会で、私は明日も誰かを頼り「ありがとう」と言うのでしょう。