コメンテーターと「知らんけど」
コメンテーターという人たちは今日も一日中怒ってる。
専門家はともかく、なぜコメンテーターという人たちはいつも怒ってるんだろうか。
というかなんで不快感を感じるようになったんだろうか。
日々起こるニュースについてあれこれと言う芸人やタレント、文化人と呼ばれる人たちが、それが最近のコメンテーターの定義なんだろう。
そんなコメンテーターたちはたまに無責任なことを言ったり、トンチンカンなことを言ったりしている。
とくにここ最近の芸能ニュースやコロナの話になると、「居酒屋トークみたいなことしか言ってないな」と思う。あと自分たちの業界が特殊だからなのか、擁護や保身に回ってしまうこともある。
これが不快感を感じる原因か?ちがうなぁ。
芸人さんが社会のニュースや話題についてコメントすることは昔からよくあることだった。
でもだいたいそれは関西ローカルだけとか、見られる人が限定されてくる番組が多かった。でも今や関西ローカルであろうと全国ネットであろうと、さらにはテレビだけでなくラジオも、ネットのおかげで(せいで、かな)全世界に知れ渡るようになってしまった。その結果、ローカル番組であろうとなにか不謹慎なことを言ったり、良くないことを言ってしまうとすぐに全国、全世界に伝播してしまう。せっかく閉じた世界で遊んでたのに、とつぜん壁が崩れて全世界とつながってしまった、そんな状況になっている。
あと関西には「知らんけど」という魔法の言葉がある。
あんまり過信してはいけないし、多用すると信用なくなる言葉ではあるが、どれだけ自分の意見を言ったとしても最後に「知らんけど」をつけると、そこまで真面目に聞いてた人たちが「なんや、知らんのかいな」となり、「真面目なこと言うてるけど、なんやかんやで芸人さんやな」となってたんだよね。
怒れる芸能人が怒りに任せてコメントする番組は結構あった。痛快!エブリデイの「モーレツ怒りの相談室」とか、南光さんずっと怒ってるなぁって思ってたもの。
でもあれを不快と思わなかったのは、ただ怒ってるだけでなく、ちゃんと冗談も交えて、その結果笑いも起こっていた。だから良かったのだ。
それは結局あれだけ怒ってたにもかかわらず「知らんけど」という言葉の力がどこかで効いていたから、そう思ったんだろうな。
結局のところ、芸人やタレントのコメンテーターにはこの「知らんけど」という言葉のように、最終的には面白いコメント、明るいコメントを求めてるのであって、そんな真面目にずっと怒ってるのは見たくない。それが不快感につながってるのかもしれないねぇ。
知らんけど。
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