ラジオと地震

1995年1月17日。
僕は10歳で兵庫県三田市に住んでいました。被災地だった神戸・阪神間とは六甲山地を隔てた北側で、あの地震では壁にヒビが入る程度でさほど大きな被害はありませんでした。
父親が電力関係の仕事で、しかも被災地ど真ん中の西宮に事務所があったことから、電気が復旧するまでの1週間ほど、家には帰ってきませんでした。
今も流れる関西電力のCMで、25年前に停電から電気が復旧して「わぁー」っという歓声が上がるのがあるんですが、あれを見るたびに父親があれに関わっていたということもあり、なぜか誇らしく思いますし、ライフラインの大事さをしみじみと感じます。

あと覚えているのは、数日間ほど近所のスーパーから物がなくなり、ガラーンとしていたこと、仮設住宅が近くにできて、転校生(避難してきた人たち)がどっと増えたこと・・。発生して数週間の記憶はそれくらいしかありません。

あの震災で一番記憶に残っているのは、まだ復興を始めたばかりの3月の初旬。
親戚が神戸に住んでいて、お見舞いも兼ねて遊びに行きました。
そのときに三宮に連れて行ってもらって見た、倒壊した阪急とそごうの解体現場が忘れられません。
あの地震の2週間ほど前の正月休み、親戚の家に遊びに行って、お年玉握りしめて東急ハンズに行ったりしたあの三宮。
どんより曇った日の解体現場を見てとても悲しくなったことを思い出しました。

震災体験談はここまで。
ここからは自分趣味とかの話です。まぁちょっと関係はあるんですが。

阪神淡路大震災があった1995年あたりから、僕はアニメ好きの友人と出会い、アニラジと呼ばれるものと出会いました。
それが「林原めぐみのHeartful Staion」。
それまで林原めぐみという人をあまり知らず、「乱馬とかの声の人だー」くらいの知識でした。でもラジオではアニメの話以上に普通のトークがとてもおもしろく、いつしか敬意を込めて「めぐさん」「閣下(これはどちらかというと失礼に値しますが)」って呼んでいました。
その後中学に進学した頃、まわりはみんなプレイステーションを買っている中、僕はハートフルの中でやっていた「遊星セガワールド」のコーナーのおかげで(せいで?)セガサターンを買いました。それくらいには影響されていました。
その後ハートフル以外にもAMKOBE(現在のラジオ関西)の深夜のアニラジを聴くようになり、友達とラジオの話で盛り上がったりもしました。

そんななか、多感も多感の中学2年の夏、三田から神戸に引っ越すことになりました。
当時神戸は震災から3年経っていました。更地は多かったものの、街が受けた傷はある程度癒えていました。
しかしそこで待っていたのは「友人関係のリセット」です。
それまでいた友人たちとは疎遠になるため、実質リセットされるわけです。
そして神戸で作ればいいじゃない・・と思ったところで、僕は気づくのです。

自分は被災していない「よそ者」である。


引っ越してきた地域は山側でそこまで被害はなかったものの、海側はかなりの被害があり、避難所にも多くいたそうです。
そこで生まれた絆はとても素晴らしい・・のですが、逆に言えば団結力と言うかよそ者を排除する感じがとてもひしひしと伝わるんですね。
そこへ思春期真っ只中の少年が放り込まれたのです。
ともかく孤独でした。

そんな孤独に苛まされている中、唯一の救いはラジオでした。
三田にいたときには雑音だらけで全く聴けなかったラジオ大阪が聴けるようになった結果、アニラジはもちろん、オールナイトニッポンまで聴くようになりました。
夜10時以降はずっとラジオ。
受験勉強のお供・・どころか、「ラジオが聞きたいから受験勉強してた」くらい、ずっとラジオ聴いてました。

その後、高校に進学するとようやく「地域の絆」とやらが薄らぎ、ラジオやアニメが好きな友人ができていきました。
それまでは中央区だけだったのが、さらに被害が大きかった東灘・灘区から通う人もいました。でも震災から5年が経過していたこともあってか、そこまでの疎外感はありませんでした。

高校になっても聴くラジオの数は増える一方。
専門学校に進学した頃にはインターネットラジオまで始まり、ウォークマンで聴いているのは音楽ではなく録音したラジオを聴く毎日。
それは社会人になった今も同じです。数はちょっと減ったか増えたか。

ともかく楽しいトークが聴ける。ながら聴きができるし、テレビよりもずっとおもしろい。
軽快なパーソナリティ同士の掛け合いがずっと聴ける。
声優さんはもちろん、芸能人がテレビでは絶対に言わないようなパーソナルの情報を出してきて、テレビ見てるだけの人よりも詳しいんだぜ、みたいな優越感・・。
ラジオを聴く理由、魅力はたくさんあります。でもそれが少し変化することが起きました。

それは2011年3月11日、東日本大震災です。

阪神淡路大震災よりも広範囲で、津波が襲い、街は壊滅状態。さらに原子力発電所の事故が起き、もうこの世の果てなんじゃないかと絶望しそうになっていました。
テレビはずっと悲惨な映像ばかり。あまりにも衝撃的な映像が流れ続けて、本当に気が滅入りました。
なにせ趣味であるアニメの鑑賞が1ヶ月ほどできなくなるくらい。

そんな気が滅入っているときに救ってくれたのがラジオでした。

当時、radikoはエリアフリーなんてものはなかったのですが、震災の特別措置で東京や東北のラジオが関西でも聴けるようになっていました。

その時のラジオもやはり絶望的な内容をずっと伝えていました。でも、合間に曲を流してみたり、元気を出そうと呼びかけたり、伝わる情報も日常を取り戻すためのものへの切り替えが早かったりと、とにかく明るかったんですよね。

阪神淡路大震災のときのAMKOBEも、ただ不安を煽るだけの放送はしていなかったと聞きます。一緒に生きていくんだという、前を向いた放送が割と早く始まったようです。

ラジオは映像がつきません。だから衝撃的な内容は伝わりにくい媒体です。
でもだからこそ、衝撃的なこと、特に災害が起きたとしても、日常に戻るための切り替えを早くできるようにする手助けを、どのメディアよりも早くやるように思えます。そして、それはテレビで再三流される悲しい映像を見ている(見させられて、がいいかもしれません)、被災者とは直接関係ない人までもが気が滅入ってしまったときに、とても助かりました。

その後も度々災害が日本を襲います。
特に大阪だと2018年の大阪府北部地震がありました。
このときも僕は直後にテレビを見ていましたが、会社に行くのでラジオを聞いていました。ちょうどそのときに「ありがとう浜村淳です」をやってて。
電車が止まっていたので、ひたすら会社まで歩いていました。そんな中、ずっと浜村さんのお声を聴いていました。
被災した、というわけでもないけど地震で動揺していた自分に浜村さんの声はとても落ち着くことができました。

ラジオは災害時に役に立つ。それは情報源としてもだけども、動揺した人、被災していないけど衝撃的な映像を見すぎた人に対して、「ここには日常があるよ」と示してくれる。その結果、肩の力が抜けてホッとする。それをラジオは提供してくれる。

それがラジオの魅力であり、僕がラジオを聞き続けている理由のひとつなのです。

阪神淡路大震災から25年目の今日。
1回限りのHeartfulStationの復活回を嬉しくもあり切なくもあり、結果的に泣きながら書きなぐっております。

改めてラジオっていいなぁ。

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