心の渇き:卒業が近い京大生の嘆き
久しぶりの投稿。大学生活も終わりを迎えようとしている中、タイトルにある通り、形容しがたい心の渇きのようなものに襲われている。どうしてなのだろうと考える日々の中、この思考を書き出さないことには気持ちよく眠れないと思いnoteに書き残す。
関係ない話だが、こうした内容の記事は過去にもいくつか書いている。大学生活の4年間で書いた記事は、あとから読むとどれも奇妙な感覚に陥る。それが面白くて記録しているわけだが、時間が経ってこれを読む自分はどんな気持ちでこれを読むのだろうか。今と同じような心の渇きは解消されているのだろうか。「熱」と「殺意」の向けどころを見つけていることを切にに願う。
「心の渇き」とはなんだろうか。よくある表現だが、今の私の中の定義はこうである。心の渇き:「熱」の向け所の欠如。この「熱」こそ今の私が求めてやまないものである。ではそれは本当に今の自分にはないのだろうか。自慢に聞こえるかもしれないが、私は肩書だけで言えば周囲から見れば非常に充実した日々を過ごしているように見えるだろう。関西最大規模のバレーボール大会の運営代表、留学生の支援、筋トレの部活に所属しい日々トレーニングに励む。さらに余談だが、卒業後の進路も非常に満足のいくものを確保しており、はっきり言って満足に値する人生をつかんでいることに疑いようはないだろう。だがそれでもなお、心の渇きは消えないのである。何故か。それは一重に私の大学生活は常に「腹8分目」であったからだ。
私は少し前に『呪術廻戦』にはまり漫画を大人買いした。登場人物の石流は、人生に満足していないことを「腹八分目でデザートがない人生だ」といった。私は強く共感した。デザートという食事の最後まで食らいつくしてこそ、満腹になれるのである。
大学生活は、「デザートのない食事」そのものだった。コロナで始まった生活。京大に合格したことに満足し、楽しいことを追い求める日々。コロナ禍の中、自分の生活はまぁましだと言い聞かせてきた1年半。サークルの代表を務める機会が巡ってきたがそれも本気にはなれなかった。就活も頑張った自信はある。国家総合職試験の勉強もゼミの勉強もこなした。それでもその熱は私の心を満たすものではなかった。そこそこの努力で乗り切れるものでは満たされないのだ。本気になれるものを求め筋トレ、大会の運営にも手を出した。肩書が増え、満足感はあったがそれでもどこかで虚しさがあった。私はどうすればよいのかわからないまま卒業を迎える。いや、どうすればいいかはわかっているが、時すでに遅しなのだ。
4回生の夏、ロンドンへ留学した。たった2カ月だが、そこには求めていたものがあった。毎日の刺激、日本人に興味をもって、積極的に関わってくれる友人たち、刺激的な夜。彼らは熱を持っていた。ロンドンに来て過ごす時間を有効なものにしよう。最大限の人脈を築いて帰国しようという熱だ。もちろん異国の地で目新しいものが多かったから気持ちが盛り上がっていたのもあるだろう。それでもあの場所には「熱」があった。
他責思考は嫌いだが私は1つ、この症状の原因を理解している。それは、同じだけの熱を求める存在に出会えなかったこと(もしくはこの熱を誰にも打ち明けられず、仲間をみつけられなかったこと)。京大には私以上の強い思いを持った人間はいるはずだ。しかし会えなかった。表面的な仲良しごっこに終わった私の人間関係構築は、ただ一言失敗である。
私が最近考えるのは過去の後悔ばかりである。あの時こうしていれば、ああしていれば。そんなことしか考えられないのは一重に今の生活に満ち足りていないからだろう。何度も言うが私の大学生活はせいぜい腹八分目。学生生活後半、私は一層多くの人と関わろうとしてきた。そこで見えてきたのはコロナなんてなかったかのような活気に満ちた学生生活だ。スタートダッシュを切れず、悶々と生きる私にはつらい光景だ。彼らは熱に満ちている。私や周りの人間にはもうそれはない(もしくは私の知らないところでそれを手にしている)。彼らは高校生活で同じような思いをしたかもしれない。それは容易に想像ができるが、それは私のあずかり知るところではない。
高校時代のあの激動の日々を超える経験が、大学では得られなかった。部活に受験勉強、恋愛などとても充実していた。だが当時の熱は、そんな簡単に言い表されるのものではない。最高の仲間、絶対に負けない、受かってみせるという熱と殺意。すべてが揃っていた。
なぜ大学ではそれが手に入らなかったのか。こんなことは言いたくないが、私の周りにはそこまで熱い人間がいなかった。人生腹八分目に満足しているのだろうか。私の熱量に、応えてくれる人はいなかった。いや、いたのかもしれない。だが私の眼には映らなかった。
最近はそういった人間に出会う機会が増えてきた。体育会の人間、留学生コミュニティで出会った日本人、内定先の同期。彼らは強い人間であると感じさせられる。彼らともっと早く出会いたかった。彼らと共にPJを回したり、論文や政策企画のプレゼン等を行ってみたかった。
私は、関心の幅が広い人間だと思う。そのすべてをカバーするのに、たった4年、コロナで実質半分くらいになっていた時間は足りなかった。既にコミュニティが固定されてしまったこの生活では、到底満たされない。この辺りは入省してからの生活に期待している。彼らのような強い、熱い人間と共に過ごす時間が楽しみだ。
総じて、私はもっと熱い場所にいるべき人間だったのだ。人によっては、気楽に腹八分目の生活をすることがいいというかもしれない。だが少なくとも私はそうではならしい。勝つか負けるか、受かるか落ちるか。死ぬ気で全力を尽くさないと実現できない目標とそれに共感してくれる仲間。これが欠かせない。それから新しいこと。同じことばかりしては成長は感じられない。常に新しいものを取り込み続けなければ、私の渇きは満たされない。そして最後に、肉体的な疲労である。体の疲れが無ければ真に満足感は得られない。あの時の息の上がり方、疲労感、それらを乗り越えて成功をつかむ瞬間。それこそが心の渇きを満たすために必要なものだ。
最後に繰り返しになるが、腹八分目の人生では満たされない何かがある。この生活で得た学び、人間としての歪み、満たされない欲とその渇望、それらが自分を強くしてくれていると信じている。この欲は大学生活ではもう満たされることはないのだろう。これを満たしてくれる存在は、大学には
いくらでもあっただろうに、それを見つけられなかった。見つけようとしなかったのは自分のミスだ。クソみたいな大学生活だったが、まぁ楽しかったと言えるようベストを尽くしたつもりだ。この渇きが満たされるのはまた先の話だろう。
この話を書き終えた今、頭の中はおなかがすいたということしか考えられないが、やはり思いを書き出すのはよいことである。同じような、満たされない心の渇きにあえいでいる人間がいれば、これを読んでみてほしい。