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高齢者福祉削減の意義


興梠の基本的主張は、こちらの記事にも書いた通り、「社会主義をやめて、小さな政府を目指せ」というものである。その中でも、私の行動を観察すればわかるとは思うが、「高齢者福祉の削減」はかなり大きなテーマとなっている。今回はここ、特に医療に的を絞ってお話ししたい。
高齢者向け福祉に関しては、医療だけでなく、介護も非常に重要な論点となるが、問題の根幹部分は共通している。

言うまでもないが、高齢化にどう対処するか、高齢者福祉をどうするか、という点は目下日本において非常に重要な課題である。将来世代のために、あるいはこの国を持続させるために、高齢者福祉は削減しなければならないという点に関してはある程度のコンセンサスがあるだろう。

そうはいっても、漠然とした問題意識しか抱いていないという人が多いように思えるし、何より高齢者福祉といっても、具体的な問題点は必ずしも明らかではない。また、この問題をわがごととしてとらえていない人は、おそらくかなり多い。この問題に立ち向かう政治運動がネットではなく現実世界で行われたことが(私の認識が正しければ)数えるほどしかないという現状がこのことを如実に示していると言えるだろう。4月以降東大の駒場キャンパス構内でビラを貼付しているのには、こうした現状に一石を投じる狙いがある。

さて、この論点に関しての私の主張は、「医療費・介護費窓口負担全世代三割化」である。現状、原則として、医療費の窓口負担は、70歳以上の高齢者は2割、75歳以上の高齢者は1割、未就学児2割となっている。こうした自己負担率の低さは、モラルハザードを助長する。つまり、過剰受診を促進する。

こういうことを書くと、よく「高齢者もそんなに暇じゃない」というような反論、つまり機会費用が巨大であるという趣旨の主張をいただくことがある。そこで、この点を少しばかり具体的に論じるため、数字を見てみよう。コロナ前の2019年のデータになるが、70歳以上の高齢者が国民医療費の半分以上を占めていて、特に75歳以上の高齢者だけで全ての医療費の約4割を占めている。これは65歳未満の総医療費に匹敵する額だ。そして、後期高齢者に対する医療費給付も、自己負担額を除した医療費の給付全体の4割を占める


(出典:中田智之氏)


身体が老化すれば健康を害する事象が多くなるのは確かであり、老人が年齢の若い人よりも医療サービスのお世話になる機会が多いということは自然なことと言えるかもしれない、それでもなお、自己負担の低さが一人当たりの医療費に与える影響が相当程度あることがこちらの論文により示されている。低い自己負担は確実に過剰な需要を喚起するのである。

また、自己負担を上げるべきだ、という話をすると、「本当に必要な医療が受けられなくなる」という反論を受けることも珍しくない。しかし、これもナンセンスである。

まず、「自己負担割合を引き上げよ」という主張は「公的保険制度を廃止せよ」というものとは異なるのである。高額療養費制度なども見直しが必要とは考えられるが、このような自己負担の引き上げそれ自体はただちに患者自身に非常に大きな負担を強いるものではない。そして、「本当に必要なもの」があるとすれば、当人はそれなりの金を出してでも手に入れようとするはずであろう。金額の制約が大きくなることで、各人は出費の取捨選択を自動的に迫られるからである。自己負担が1割から3割に上がった程度で利用を控えなければならないような医療サービスは、当人にとって「本当に必要なもの」とは言えないだろう。

我々の主張は往々にして「非人道的」すらと見なされる。上にあげたような反応以外にも、「高齢者を切り捨てるのか」というエキセントリックな反応すら後を絶たない。

しかし、先ほども書いたとおり、これはいわゆる「姨捨」的主張ではない。サービスの受益者に応分の負担を求めているだけである。また、このような反論は、「高齢者福祉を削減したら割を食うのは現在の高齢者だけでなく現在の現役世代でもある」という趣旨を含意しているか、あるいはこれとセットになることが多い。

だが、現在の社会保障体系を維持した場合、現在の現役世代が高齢者となったとき、現在の高齢者と同じ水準の社会保障を享受できる見込みは、はっきり言ってない。現在の高齢者が経済成長の果実を食い尽くしたのちに老後を送らなければならなくなるからである。このような「手厚すぎる」社会保障制度を維持し続けると、この国を待ち受ける運命も、あるいは国民の大多数を待ち受ける運命も、「破滅」という二文字で表されるものになる。具体的には、社会保障のために散々垂れ流してきた財政赤字によってうずたかく積みあがった公的債務のおかげで、国家財政が破綻し、ハイパーインフレがもたらされるというようなシナリオが考えられる。こうなると、我々の生活水準は目に見えて低下する。もはや社会保障制度というものも維持不可能で、最悪の場合、我々は文字通り野垂れ死にしなければならないかもしれない。

私にとっては、このような未来が待っている蓋然性に目をつむってひたすらに社会保障削減論者・反福祉国家論者の非人道性のようなものを喧伝するような人々こそ非人道的に思える。そもそも、人々は自身の老後の、あるいは現在の高齢者の社会保障のために生きているのではない。そして、社会保障支出が財政赤字の最大級の要因となっており、この点でも将来に禍根を残しかねない現実を直視すべきである。

断っておくが、私は小さな政府論者であるものの、公的な社会保障制度の必要性を認めるにやぶさかではない。だが、社会保障制度によって人々の人生の方向性が必要以上に規定されたり、彼らの財産が必要以上に収奪されるという状況を、私は強く憎む。高齢者の過剰な受診によって現役世代の負担が大きくなっていくことを黙認し放置する人間こそ、非人道的と糾弾されてしかるべきだ。

「高齢者福祉の削減はナチスの障害者への迫害を想起させる」というような論も散見される。これも途方もない誤謬である。実際には、高齢者医療を拡充すればするほど、本当に必要な福祉、つまり障害者福祉のようなものは、さらに冷遇されてしまうという対立関係が生じている。

障害者福祉が何のために存在するのかを考えてみよう。先天的な障害を負った人たちのためという目的も存在しているが、「健常者のリスクに備える」というものがある。後天的な障害を負ってしまう人も、確実に存在しているからである。リスクという語は、「意図・予期せぬ障害」という意味で解釈していただきたい。ここで重要なのは、先天的にせよ後天的にせよ、障害を負う可能性はかなり小さいということだ。母数に対する「当事者」の数は極めて限られるのである。これこそ、「個人のリスクに社会で備えること」そのものだ。

だからこそ、障害者に公的な社会福祉制度や公的保険で対応するのは合理的だし、あるいはいつ誰が障害者に転落するかわからないのに、彼らを敵視したり障害者福祉の存在を非難するべきではない。対し、老化という、年を取れば不可避的に誰しもが直面する事態、いわば生理現象を経験している人を公的に手厚く保護して優遇する合理性は薄い。老化はリスクではない。

ちなみに、私は小児医療の無償化・低負担化にもかなり批判的である。少子化対策のため、少子化で子供の頭数が少ないからなどという理由だけでは小児医療を無償化したり低負担化することに対する説明としては十分とは言えないと考える。もちろん、我々の金銭的負担にもたらす影響は高齢者の過剰受診よりも小さいだろうが、現役世代の負担額の多寡などは子供への過剰な福祉を擁護する根拠にはならない。無償化による好ましい効果がどのようなものか、どの程度あるのかが不明だし、これもまた過剰な医療需要を喚起することは火を見るよりも明らかだからだ。上にあげたような社会保障の本来の役割にも合致しない。

ここで、他国の実例に少し着目してみよう。イギリスはNHSという先進的な公的医療サービスを整えている。具体的には、サービスが基本全額公費で賄われるため、この制度の加入者は、指定の医療機関を利用する場合には無料または非常に低い自己負担で医療サービスを受けることができる。しかしながら、患者の医療へのアクセスは日本と比較すればかなり制限されている。

日本の場合、病院の外来に直接患者が出向くことも少なくないが、このようなことはイギリスでは基本的には不可能である。イギリスの場合、NHSを利用したうえで病院の受診を希望する場合は、救急車を利用するなど緊急の場合を除いてかかりつけ医(GP)の紹介状が必須となる。つまり、何らかの治療を受けたいと思ったら、一度GPを受診しなければならないということだ。日本のように、一人の患者が複数の医療機関を同時に使うということは、当人がNHSを利用する限りにおいてはほとんど起こらないし、患者がどの医療機関を使っているのかの把握も容易である(余談だが、この点に関しては、日本においても、マイナ保険証の導入が進めばある程度はイギリスのありように近づくのではないかと考えられる)。

一度GPの診察を受け、必要と判断されれば病院を受診し専門的な治療を受けることになる。しかし、ここからが注目に値すべき点で、病院や専門医によって緊急性が低いと判断されれば、その患者は「後回し」になり、短くても数週間程度は待機を余儀なくされる。どうしても早く専門的な治療を受けたい、という患者は、NHSの枠外にある医療機関を全学自費で利用することになる。さらに、市販薬で対処可能な症状の場合だと、処方箋すら出してもらえないのである。

この制度にさほどの問題があるようには思えない。各種の世論調査を見ても、国民全体の満足度は概ね6割から7割といったところである。ここ一~二年の調査では満足度がぐっと下がったようだが、これはコロナ禍の副作用のようなものであると考えられるので、外れ値と見なしても構わないであろう。平均寿命も81歳前後で推移しており、特段悪い水準とはいえない。
日本の社会保障の今後を考えるにあたって、大いに参考になるのではないだろうか。

一方、高齢者福祉に何らかの形でメスを入れなければならないというコンセンサスがあるからと言って、実際に政治で込み入った議論が行われているわけではない。まず、社会保障の削減という論点自体が、いわば有権者の既得権益を打破することを目指したものであり、多分に政治的な困難性を伴う。全有権者に占める高齢者の割合が高くなっていることも、この政治的困難性を倍加させているように思える。また、先ほども述べたとおり、こうした論は見る人によっては非人道的とも映るようで、しかもそうした人の数はそう少なくない。

しかし、だからと言ってこの運動を停滞させることがあってはならない。

このような状況を放置していては高齢化に伴う社会保障費の増大や福祉セクターの肥大化への対処は不可能である。無論、何をしても社会保障給付が今後もある程度増加することは避けられまい。福祉セクターに雇用される人員の数や、この産業の経済規模も、相応のものにならざるを得ないかもしれない。

しかし、有効な増大・肥大化抑制策を講じるか講じないかによって、その後の景色はかなり違ってくるはずである。例えば、勤労者が過大な社会保険税負担から解放され、給与そのものだけでなく、差引支給額(手取り賃金)が顕著に上昇する。それまで社会保障に投じられていた資源がいわゆる「成長産業」に振り向けられるようにもなり、経済も上向くのではないか。福祉セクターにきわめて多くの国民が雇用され、人々の稼ぎの多くが福祉セクターに召し上げられるような国家では、技術革新など生まれるはずがない。

何より、我々と日本を破滅から救うためには、一刻も早く手を打たねばならないのである。



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