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私の備忘録

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独学我流で写真を学んでいる私の立場から必読の記事を掲載させていただきます。
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#エッセイ

音楽と共に

今年はたくさんの音楽に触れた一年でした。 私は残念ながら何の楽器も弾けませんが、もし大人になって習う楽器が有るとしたら、そしてもし日本に住んでいたら...習っていたかも知れないと思う楽器があります。 それは三味線、それも津軽三味線。 関西で生まれ育った私が岩手にある看護短大に進学したきっかけは津軽三味線の音色でした。 高校生活も終わりのころ、たまたま付けていたテレビで盲目の少年が弾く津軽三味線のドキュメンタリーをやっていました。 高校卒業後、家を出るつもりでしたがなるべく遠く

「意味のある偶然」のこと。

先週の日曜日、ある教会でマンドリンとクラッシックギターとコントラバスのアンサンブルが催され、そこで友人がギターを弾く姿を、初めて間近で見ることが出来ました。 いつも遠慮気味で線の細い友人の、ギターを抱くその背筋が伸びた姿は凛として、とても美しく静かな気迫を感じました。 こうやって音楽に向き合い弾き続けて来たのだと、ギターを包むように前傾し真っ直ぐに伸びた背中を見ながら、彼女の音を最前列で聴いていました。 音楽に対峙する厳粛さと、心に語りかけるような深い音色を聴きながら、何か

なみだのはなし

NHK大河ドラマ『光る君へ』 道長(柄本佑)とまひろ(紫式部: 吉高由里子)の逢瀬 そこで涙を見せたまひろのセリフ まひろの涙に 道長は、この涙は(喜びなのか、悲しみなのか)どっちだと訊ねます まひろは、「どっちも」と答えます 愛し合っていても夫婦にはなれない 幸せで悲しい… 幸せって悲しい… そんな切ない涙でした まひろの父 為時(岸谷五朗)は、摂政となった藤原兼家(段田安則)の計画により官職を外され、仕事を失い生活が苦しくなっていました 兼家が逝去した知らせを受けた為時

同じ景色が日によって違う〜棘のないバラ

同じ睡蓮を見て描いたのだろう。 にもかかわらず、ある時は緑で、ある時は白になり、ある時は透明で、またある時は真っ赤になる。ある時は、ぼんやりしており、ある時は輪郭がはっきりしている。 もちろん、折々の美しさがあることも理由の一つだろう。しかし、そればかりではないだろうと思う。同じ景色から放たれる熱が異なるのだから。きっと描いた人の心が今日と明日で違うのではないか。 …………… 日によって物事への感じ方が変わる思いはよく分かる。 例えば、noteでマガジン登録をしてもらった時に

自分のためにコーヒーを淹れる

なんで人に淹れてもらうコーヒーって、 こんなに美味しいんだろう。 コーヒーに限らず、お茶でも紅茶でも、 自分で淹れるよりもずっと美味しく感じる。 あの喫茶店の一杯を自宅でもと思い、 同じコーヒー豆を買って帰っても、 同じようにはいかない。 もちろんマスターの腕が良いとか、 使っている道具が違うとか、様々な要因はある。 お店やスタッフの雰囲気も、 その味をより良くしてくれている。 けれど、それだけではない。 誰かのために淹れてくれているからだ。 シンプルだけど、

石村嘉成さんの個展のこと

先日、 「石村嘉成展 生き物バンザイ」に行ってきました。 写真からもその素晴らしさが溢れるほど、 力強い作品ではありますが、 空間に入って行くと、 肌に伝わってくるような温かさであったり、 訴えかけるような生き物たちの声を、 作品を通して聞かせてもらえているような、 そんな感覚になりました。 作品の中の生き物たちは、魂が宿っているような、 " 生きている " 眼をしています。 石田嘉成さんは、 世界中の生き物たちへの興味を遥かに超え、 心から愛し、心から尊敬をしている。

小さな命との一期一会。

周りに話すと引かれてしまうので、なかなか言えないが、昆虫や生き物が好きである。 ずっと昔から。 子どもの頃は、夏休みのキャンプ場でクワガタを見つけることが何よりの宝探しだった。 他にも好きなのはセミやカマキリやカブトムシやカミキリ虫。カエルやトカゲ。ザリガニ。沢蟹。 中身が子どもの頃から変わってないのかもしれない。 40代となった今でも、見つけるとそれはもう嬉しくてはしゃいでしまう。 小さな命の愛らしさ、生きている愛しさ。 昆虫との一期一会に感謝だ。 しかし、これが、な

人の命は「石鹸玉」

【スキ御礼】鑑賞*しばらくは人の高さを石鹸玉 十六世紀の西欧の絵画では、シャボン玉が人の命の儚さの象徴として描かれています。 これは、古代ローマの諺「人間は泡沫である」homo bulla、「人間の命ほど壊れやすく、束の間で、空虚なものはない」という人生観に基づいたものだとされています。 それを表す実際の絵画をご紹介できないままでしたが、Nao Masunaga さんが、イタリア ペルージャのウンブリア国立絵画館で催されたシャボン玉をテーマにした特別展のレポートの中で紹介さ

句碑*観音の慈顔尊し春の雨

大野万木 鎌倉 長谷寺の経堂の脇に句碑があります。 鎌倉長谷寺のご本尊は、十一面観音菩薩像。高さ三尺三寸、寄木造りで全身に金箔が塗られています。 大和長谷寺に次ぐ国内最大級の高さだといいます。 観音の名を称えれば、七難、三毒を逃れ、観音を念ずれば子宝に恵まれるという現世利益があるといいます。 また、観音は衆生の救いを求める声を聞きつけると、救うべき相手に応じて33種類の姿に変化してこの世界に現れ、苦難から救い出してくれるのだそうです。 すなわち、観音菩薩は今生きているこの

頼山陽が見た「花の雨」(2)

【スキ御礼】 歳時記を旅する13〔桜〕後*上千本中の千本花の雨 西行が見た「花の雨」 秀吉が見た「花の雨」 芭蕉が見た「花の雨」 本居宣長が見た「花の雨」 頼山陽が見た「花の雨」(1)  前回母を連れて吉野を訪れて花に出逢えなかった頼山陽は、その8年後の文政十年(1827年)三月十八日、再び母を連れて吉野を訪れる。 今回は花に遅れてはならじと雨をついて出発し、二十日に吉野に着くと雨はようやく上がり、翌二十一日は晴れて満開の桜に会うことがことができた。 前回の八年前より十五

ぜんぶ。

咲いていても 咲いていなくても どこかへ向かう道のりも 何かが終わるときも 全部その人の大切な一部です。 というよりもどんな姿も その人の " 咲いている " でもあるのかなって 写真の桜も " 咲いてないときのわたしも見てー " と言っているようにも見えました。 咲き誇る美しさに 誰もが目を奪われるけれど 咲くまでの道のりも 散りゆくその果てまでも 美しいことを知っているよ " 知っている。" に愛を込めて phot by...

掲載*酔客が酔客起こし十二月

岡田 耕 掲載誌:『俳句四季』1998年9月号 東京四季出版 〔新・作家訪問〕土生重次 「扉」主宰 ―きっかけは叔父への供養) (岡田  耕) 【スキ御礼】掲載*魂抜けのやうに紅褪せ曼珠沙華

聴こえる祖母の声

数年前に他界した母方の祖母は 大変我慢強く、精神的に強い人間だった。 昔はそんな祖母をハッキリしていて少し怖いと思う事もあったが 同時に 誰にでも優しい眼差しとお日様の様な温かさを併せ持つ人でもあった。 単身上京や出戻り、戦争や病気 様々な苦労を経験した様で 長生きはしたものの40代で祖父に先立たれてからは ずっと一人だった祖母。 左薬指の指輪は生涯外される事が無く 心は一人じゃ無かったかもしれない。 しかし いつか祖母が私に話してくれた本音がある。 (やっぱり寂しく

鑑賞*探梅やこの一輪に出逢ふため

松浦 加古 句集『探梅』所収。平成二十四年作。 春を過ぎて咲く桜は余花。 春を前に梅を探すのは探梅。 桜は過ぎゆく春を惜む花。 梅は来るべき春を喜ぶ花。 桜は散りゆく姿を見に行きたくなる。 梅は開きはじめを見に行きたくなる。 だから、出逢う梅の花は一輪でいい。 (岡田 耕) 【スキ御礼】「鑑賞*星のぞく聖樹飾らぬ家あれば」