精神科医療と思想の関係性
日本の一般的な医療ではだいたいのところ患者中心主義になっていると思うし、眼科や内科や外科にしても応用科学的というかデータやエビデンス、科学的な病理学に基づいた診療や医療になっていると思う。それに医師の意識もかなり人権的だと感じる。
それに比べて精神科医療は、自分が資料を読み込んだところから感じたことに基づくと、病院団体や国の「隔離収容政策」と「優生思想」が明らかに絡んでおり、これは一種のハンセン病に近い国策的様相を呈していると思える。
などと書くと「物騒な」と思われるが、昨年7月に東京新聞に出た日精協の山崎学会長のインタビューの内容は、全部反論というか反証のできるような愚かなものだったし、実際の現代的な標準医療のエビデンスに基づかず、患者は治らない異常者だから隔離収容的な長期入院と強制入院が必要で、身体拘束もやむなし、という考えらしい。
どういう思考形態というか思想が山崎学氏を始めとする日本精神科病院協会(日精協)の医師の頭に詰まっているのかはこのインタビューでだいたい分かるし、日精協の設立趣意書に書かれているように、患者は世間から排除されないといけない迷惑者的な内容である。これは自分に言わせれば一種の医療放棄であり、人を人とも思わない、患者を患者とすら思わない精神科医療の特殊な側面が出ていると思う。
東京新聞の山崎学氏のインタビューでは、東京新聞側の「なぜ欧米では地域医療が可能なのに日本では出来ないのか?」という質問に、彼は「欧米ではデポ剤を使用するからだ」と言っている。ここが不思議なところで、医師側の言い分はあるにしろ、デポ剤を使用すれば短期入院で地域生活も可能だという、欧米諸国的精神科医療は可能だと会長自ら言っているとしか思えない。それならできるだけそうするのが、医師というか医療倫理としての義務だろうと思う。
個人的な考えだが、精神疾患だけを障害者にしているのも二級市民として人権を格下げし、人権無視の医療を国や病院側中心に行えるようにするための公的な装置であるとしか思えない。自分は精神疾患は慢性疾患にほかならず、病名としての精神障害では有ってもいわゆる障害学的な障害者にはあたらないと考えている。病気に関する医療・科学的側面が完全に無視されていると思えるからだ。
話を戻すとこの現代医学の時代において、精神科医療だけが70年前の精神衛生法時代のままの意識で行政とも相まって精神保健福祉を行っているわけだし、それは「隔離収容政策」や「優生思想」から繋がっている。
今はDSM-5を使用したエビデンス治療が精神科医療にも取り入れられているが、医師側の言い分はあると思うが、患者側とすれば恣意的な医療からちゃんとした応用科学的な医療としての保証を得られるだけマシというものだ。単なる医師の所見(疑惑付き)に基づいて、5年も10年も20年も入院させられては堪らない。もちろん、客観的な理由があって長期入院もやむを得ないという合理性があれば納得がいくが、医療的な合理性ではなく経済合理性で病院側が動き、その要因として「隔離収容政策」や「優生思想」が用いられているように思う。
前時代的な山崎学日精協会長のインタビュー記事も、素人の自分にもすべて反論・反証できるほど稚拙なものだし、国連が非医学的という彼の私見は間違いだと思う。WHOが現在において非医学的な所見を出すわけがない。
何も無理に全患者をいきなり地域にと訴えたい訳でもない。理由のない医療側、行政側の都合で数十年も患者の人生の時間が奪われるのは明らかに人権侵害だ。自分の言いたいのはちゃんとした理由があっての治療であり入院であるべきだということだ。政策や思想が患者中心医療よりも優先されてはならないと思う。
まだまだ、世間ではスティグマが強いし、患者自身にもセルフスティグマが散見される。世も末だなと思うが、今後の社会や精神保健福祉に自分が発言し続けるというのもおかしな話だ。
要するに現代医学的な医療倫理とエビデンスに基づいた医療、そして社会における科学的思考の尊重が重視されていかなければ、精神医療及び精神保健福祉の未来はないと言わざるを得ない。なにせ自分が初めて入院した30年前と体感的にはほとんど変わりないと思えるからだ。
「ヒポクラテスの誓い」を出すのも野暮だが、ハンセン病の二の舞いを精神医療で演じる愚だけはこれ以上続けて欲しくもない。