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注意や批判は、嫌いだからではない。

 うーん、ツイッターで見てたら批判をした人に対して

嫌いなんですか?

という質問をしている人がいたんだけど…。いつもごっちゃにする人がいるんだよね、この点を。

 よって、今回そのテーマをメインに据えて書いておきます。これはリーダー論としても私の考えというか、持論を体験を通して書きます。

 まず、タイトルでも書きましたが…

注意や指摘は、嫌いだからする訳ではない

という事。でも、この反応は分からないではないんですよ。というのも、

嫌いな人が、こういう欠点を突いてくる

から。このような人が多数いるため、違いを見てないか、分かってない人がごっちゃにする。

 これを見分ける方法は簡単です。スナワチ、

その批判が単に善悪だけで終わってるかどうか

見ればわかる。

 どういうことかというと、本当の好き嫌いで言ってる人は

良し悪し

という割り切り方でしか言ってない。だから、ダメだとか間違ってるとか、なぜ?どうして?が抜け落ちてる。論理的な根拠が示されてない。

 仮に書かれたとしても、その内容がジャッジした善悪が先であり、後付けと分かる。だから、こういう人たちの批判というのは単なる好き嫌いの善悪判断に過ぎない。ハッキリ言ってほとんど役に立ちません。

 対照的に堂々と批判を出して、賛否がとかく多い人たちの場合はむしろ

なぜ、批判しているのか?

を述べていることがほとんど。そこで書いて無くても、以前から繰り返し言っていたり、同じようなケースで詳細に意見を述べていたりと、どこかしらでその考えを知ることができるのです。

 こうした内容を見れば、なぜダメだと思っているのか?などが整理されている。ロジックとして納得できるかどうかは別ですが、理解そのものはしやすいか、できる。あとはその考えにあなたが賛同できるかどうか。これだけでいいのです、本来は。

 また、賛否にさらされる人たちはなぜそうなるのか?も明快です。それが、

自分の思うところを述べているから、グループ分けできない

から。傾向や価値観としては共通点があっても、こうした人たちは独立しているので、忖度する必要がない。だから、利害の異なる人たちへ常に批判の矛先を自由に向けられる。特定のグループや価値観に属して我が身を防衛している人からすれば、ある事項において賛成してくれたのに、なんでこっちでは批判してくるんだ!となる。当人の在り方が全く違うので、感情を整理できない人はその時点でその人のアンチになる。それだけです。

 ところが面白いことに、こうした人たちは自分ができない振る舞いをしている人たちに、嫉妬と羨望を覚えている。(但し当人は絶対に認めない)だから、粗探しよろしく追いかける。この辺りが、相手からすればめんどくさい奴らだな、と思う点でしょうね。(苦笑)

 私自身のリーダーとしての体験でも、同じことがかなり頻繁に起きました。例えばリーダーだったころに、とあるスタッフのやり方が改善の余地があると判断して、一対一で話をし

こうした点が私から見て問題アリと思うから、改善してくれないか

といった内容を伝えた。

 すると、本人はしばらく押し黙っていたと思ったら…

私のこと、嫌いですか?

と意を決したように聞いてきた。もうビックリしましたね。(苦笑)

 本人は、要するにこういう指摘を受けてきたことがほとんどなかったのでしょう。繊細な性格をしているため、周囲も注意や指摘をしたら凹んだりして大変だ。だったらそっとしておいて自分たちの仕事をこなせばいい。そんな態度だったのだと推測ができた。

 しかし、私は良い意味でも悪い意味でも平等や公平さを意識していたため、当人の業務上の課題をそのままにするつもりは全くなかった。お節介だとは思いましたが、ちゃんと仕事のレベルを上げて、ひとり立ちできるようになって欲しい。そういうリスクを負っていた訳です。

 だから、腫れ物を触るような態度はとらずに単刀直入に話をした。今なら違うアプローチにしたでしょうが、当時は経験も浅かった。だから、どうしても直截的なやり方になってしまった。本人にとっても、相当な負担になったでしょうね。

 でも、本人がえらかったのは私の言う

私は今、キミに言ってるように指摘されるのは平気だ

という考えと、

だから君も、嫌だと思うことは私に言ってくれ

という依頼をちゃんと実行してくれたこと。まだ若く、純粋なところもむしろプラスに働いたのでしょう。最初はおっかなびっくりでしたが、私が全く怒らないのを見て自分の考えを伝えてくれるようになった。

 それからは、どちらかが一方的に言い続ける関係ではなく、言葉のやり取りができるようになった。その歩みはユックリとして遅かったけれども、マジメで堅実ではあったので、最後は克服できた。仕事もキチンとこなすこともできるようになったし、その上で自分の希望も分かるようになっていった。

 それでも、私の振る舞いは怖かったようで(笑)距離感としては近くはなかったんですよね。でも、それでいいんです。リーダーは仲良くするためにやってる訳ではない。部下(スタッフ)のパフォーマンスが上がり、全体にそれが波及効果として行きわたる。それが絶えることなく、上昇していく流れに乗ること。これがある意味、目的なのだから。

 こういうロジックで行っていたため、批判するにせよ、指摘するにせよ、私の中では問題提起や指摘という相手にぶつける局面では

いかに根拠と説得力を持って対案を用意しておくのか

が習い性の様に当たり前になっていたのです。それだけに、ツイッター上で見かける一連の無責任な感情論は、呆れるしかない。

 年齢で差別はしませんが、残念ながら年が高い程こうした柔軟性が無くなってしまう傾向がありましたね。そういう人たちは巧妙になってしまっていて、表向きは

そうですよね、その通りです

と言っておきながら何もしない。指摘すると、

そうでした、ちょっと忘れていたかも…

お茶を濁す。こういう形で躱す術を身に着けてしまっていた。

 こうした人たちの悲劇は、それまでの環境で私が冒頭で述べたように

論理的根拠を示されないまま、曖昧にする

環境に慣れ過ぎた結果なのです。当時はイラッともしましたし、ナンで変わろうとしないんだ?と思ったりしましたが…。こうしていろんな形で日本の組織や社会心理、その成り立ちなど…歴史的観点から独自にリサーチした結果、日本社会の悪しき伝統という根深いものもあるんだなと。そう、今は解釈しています。

 だから、妙に納得感がありますね。(苦笑)ツイッター上でのそうした好き嫌いに何でも付会する考えしか持てないのも、そうした所属意識や根拠を示されてこなかった中で、どっぷりつかってきた結果なのだと。私はそういう色に染まらなくてよかったと思っていますが、皆さんもこういう考えでいる限り、年をとればとる程困難な状況に陥ってしまいますよ?それは断言できます。

いぢょー。

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