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よむわたし4)この記憶はだれのもの?

あなたの名 小池水音(新潮 2024年12月号リンク先で試し読みできます)
ドクロ ジョン・クラッセン (著), 柴田元幸 (翻訳)

事実は必ずしも正しくなくていいと思う

ドクロあとがきより

余命宣告を受けたわたしは、AIに自分の人生を《記録》する。娘とお腹の命に何を遺せるか。大切な景色を手繰り寄せる、最期のドラマ。

あなたの名(新潮2024・12目次抄録より)

ドクロは著者がアラスカの図書館で見つけた昔話が、時を経て原本とラストが全く違うことになってしまったらしい、だが、その自分の記憶のほうの物語のほうが自分にとっては面白いと思ったので絵本にしたとあとがきにあった。
この大人向けの絵本を友人が勧めてくれたのと同時期に小池氏の小説を読んだので余計にふたつが重なったのだと思う。

兄弟や親と幼少期のことを話すと「あれ?」と思うことが多々ある。しかも本当のところはもはや誰にもわからないような、些細なことだったりする。
読んだ本の記憶は、もっと曖昧で何度も何度も同じタイトルに惹かれて借りてしまう本がある(自分ルールとして3度同じ本を借りたとわかったら購入すると決めたくらい)。
もし自分がAIに自分の記憶を記録することになった場合、私の場合、それは正しいのか問題が浮上する。「わたしのきおく」として残せるものって、一体何が残るのだろう。そして、正しいことが自分にとっていいことではない気がする。
考えると眠くなる。
基本、自分の記憶ははなから信用していない(曜日感覚さえない)。記憶の改ざんは日常だ。残っているものなんて、自分に都合のいいことだけだと思う。それでいいのだ。
部屋の中は心地よくて、窓からは冬のやわらかな日が差し込んでいる。
猫が足元で丸くなって、その背骨が足首にくっついてたまに動くのがわかる。多分、このお日さまのやわらかさとか、猫の背骨があたった感触だけは肌に刻まれるように記憶されていくのだろうなぁとぼんやりぼんやり思った。きょうの晩ごはん、何を食べようかなぁ。

(この記事を書いてから少し経ってしまっての追記)
皆、記憶の改ざんを日常に行っているようで『100万回死んだねこ 覚え違いタイトル集』という本があり、私だけじゃないんだわと元気がでます。
福井県立図書館HPでは最新版が更新されております。
http://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/tosyo/category/shiraberu/368.html

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