【昭和講談】幕間の思索④ 「何度も観られる」ことから芸能の魅力を考える
私の恩師である放送作家の先生から、名作映画(名画)の定義とは、という話になった時に、こんな言葉をもらいました。
「まあ、少なくとも、5回は観られることやな」
これを聞いて妙に納得しました。2、3回なら勢いで鑑賞することもあるでしょう。でも、5回も観るとなると、そこには「本当に魅力」がないと出来ません。
ただ、これには注意も必要で、例えば、次の映画です。
「私をスキーに連れてって」(1987年/馬場康夫監督、原田知世・三上博史主演)
これはスキーブームの火付け役ともなった映画で、当時かなりヒットしました。そのブームに乗り、何度も観た人も多いはずです。
つまり、「流行っていた」というのが映画観賞の動機になるということです。
「その当時の流行り」や「その時の人気アイドルの出演」で何回も観てしまうことはよくあることです。
そんな映画が、時代を超えて、また新たに人を惹き付け「5回は観られる」映画になるかといえば、疑問が残るでしょう。
何度も観るというのは、「その時代の流行」とも関係する。それも考えに入れないといけません。(言っておきますが、「私をスキーに連れてって」はいい映画ですよ(汗))
では、なぜ「同じ映画を5回も観られるか」、です。
何度か観れば話の筋はもう判っています。でも、また同じ映画を見たくなる。もちろん、ストーリーが秀逸でなければいけませんが、そこには次のことが言えるのではないでしょうか。
『その映画には、ストーリーを際立たせる「卓越した表現」があるから』
この「卓越した表現」が、画面の構成なのか、出演者の演技なのか、台詞なのか、はたまた音楽なのか、それは様々でしょう。ですが、それら「表現」が上手く、映画のストーリー・筋を引き立てている。
だからこそ、何度観ても感動がすり減らず、「名画」と呼ばれるだけの作品となるのではないでしょうか。
これは、話を広げ、「名作とは」、という定義にも応用できるのではと思います。つまり、こう言えると思うのです。
『名作の条件とは、話の秀逸さと、「その表現の見事さ」にある』
映画の他にも、ドラマや書籍、漫画、アニメ、音楽、ゲームなどなど、およそ「名作」と呼ばれるものには、この「ストーリーの秀逸さ」と「それを膨らませる表現」が備わっているのだということです。
ストーリーだけ良くても表現がまずければ退屈になり、表現だけ良くても内容が無ければすぐ飽きられてしまう。そういうことの様に思います。
例えば、TV番組。表現が優れており、番組にぐいぐいと引き付けられ、見入ってしまいます。でも、何度も観たくなるかと言われれば、どうでしょう……。
もちろん、TVドラマを始め、バラエティ番組にも「何度も観られる」ものもあり、全てのTV番組が「名作ではない」とは言えませんが、「名作TV番組」というのは数が少なくなるのではないでしょうか。
そして、本題です。
『能楽、文楽、歌舞伎、さらに、落語、講談、浪曲といった伝統芸能・大衆芸能が「話の筋・内容が判っている」のに何度も観られる』理由で、そこにも同様に「話の面白さ」と「卓越した表現」があるからだと思うのです。
特に「表現力」というのは重要で、例えば、落語で、名人の「時そば」と、大学落研学生の「時そば」を聴き比べれば、その差は明らかです。
話の筋が同じでも表現の差が歴然と現れます。
他の演目でも同様で、話の面白さを最大限に引き出すだけの「表現力」が、芸能の大きな魅力だと思うのです。
同じ話でも、表現者によって変わるし、同じ表現者でも表現の工夫・研究、芸の習熟によって完成度が変わる。そこに、伝統芸能や大衆芸能の醍醐味があるのではないかと思うのです。
だから、私なりの日本の芸能の再発見には、この「表現の味わい」に糸口があるのではないかと考えています。
私としては、芸能の日本語の発声に魅力を感じていますので、落語や浪曲、講談、さらには文楽、歌舞伎の科白回しなど、様々な演目の声の表現力について、ああだこうだと思索している最中です。
そして、その魅力を現代的な話で引き出せないかと、昭和講談に取り組んでいるという次第です。
まだ拙いものですが、どうぞ暖かい目で見てやって下されば幸いでございます。