【昭和講談】幕間の思索⑥ 生の声と芸能について
新劇の宇野重吉さんは、俳優の資質について、
「昔から俳優というのは、一『声』 二『フリ』、三『姿』と、言われていたもんです」
そう語っていたそうです。この場合の「声」というのは「通る声」よりも「台詞術」という意味合いが大きいのかも知れません。
浪曲では「一『声』、二『節』、三『啖呵』」といい、やはり声が大事だと説いています。
芸能の基本は声である、……すいません、嘘つきました。
舞踊や楽器など発声しない芸能もあります、全てを発声にこじつけるのはいけませんね。
ですが、芸能の中で声の重要性はもっと注目してもいいのではないかと思っています。
先ずは、声の大きさです。本当に当たり前ですが、自分の声が客席に届かなくては全く意味がありません。
「そんなこと、当たり前じゃないか」と思われるかも知れませんが、現代ではマイクロホン、つまり、マイクがあるため大声でなくても成り立ちます。
マイクを付けて舞台で演じることも珍しくなくなってきています。
これは、技術の進歩ではありますが、肉体(芸?)の退化でもあるのではないでしょうか。
昔の講談、浪曲の音源を聴いた時に、声の強さ、太さ、重さの違いを痛烈に感じます。そして現代の人の話芸を聴いた時に、今度は物足りなさを感じる時があります。
そんな話を番組のゲストでお見えになった歌舞伎役者の方に素直に話した時に、「歌舞伎は今でもマイク使ってないからね」と口にされて、なんか、そう言った時の雰囲気が格好良く観えた記憶があります。
ただ、本当に、マイクを使うことで声が退化してしまうのかどうか、検証する必要もある気がします。単なる懐古趣味で、かつての名人に無条件に軍配を上げているのかも知れない。そんな気もするからです。
でも、マイクに頼ってばかりいると、芸能人でも聞き取りにくい声の人が出てくるのではと思ってしまいます。
テレビや配信ではさらに、テロップで文字にしてしまうことができるので、たとえ淀んだ喋りでも、理解できる様にしてしまうことが出来ます。
でも、機械に頼り切りになってしまうと、生の声の力強さが薄れていかないかと思ったりもしています。
さて、芸能では声の大きさだけでなく、声に感情を載せるのも大事になってきます。
名人芸は、この情の載り具合と言ってもいいのではないでしょうか。
例えば「瞼の母」の名場面。
考えてみりゃ俺もいいバカだった。合いてぇ見てぇ、そればっかりで命をかけた、あっしの産みの母親は瞼と瞼を合わせたらいつでもどこでも会えてたものを。で~い、なんて俺はバカなんだ、わざわざ骨を折って、わざわざ骨を折って、この忠太郎が自分で消してしまった。
忠太郎が会いたい見たいと、やっと見つけた母親は、何とも薄情な女だった。その落胆ぶりまでの流れがあり、そしてこの啖呵。まさに聴き所。喜怒哀楽の哀がにじみ出てこないといけません。
「喜怒哀楽」以外にも、声の表現でお客さんの「ハラハラ」や「ドキドキ」、「ワクワク」する感情も引き出したい。
見本は、大道芸「ガマの油」の口上です。
さあてお立ち会い。ここに取りい出したのは、切れば珠散る名刀・正宗。ここにある半紙を切ってみると、二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚、十六枚が三十二枚、三十二枚があっというまに六十四枚。これを上に吹き上げれば、春は三月花の舞。
この鋭い刃も、これなる油をちょいとつければ、たちまちなまくらとなって、ほれこの通り……
聴衆・観衆(お客さんだけど…)は、ワクワクしたり、ドキドキしたりしながら心浮かして気軽に楽しみます。……というか、そんな気にさせなければ商品が売れない訳です。
素人と芸人の違いを考えるなら、これらの台詞を、ただ読み上げれば良いのではなく、「お客の心を動かす声」になっているということで、これが「芸能の情を載せた声」だと思うのです。
逆に言えば、こうした声を出せれば、もう素人ではなくプロになれる、ということだと思います。
生の声でお客さんに声を届かせ、情の載った声で、お客さんの心を動かす。
言われてみれば当たり前の様に思いますが、芸能の活性化のために、素人と芸能人の違いを明確にしておいた方が良いのでは、と思うのです。
「やっぱりプロは違うねぇ」
そんな「声」があちこちで聞こえてくる様にならないかな。そんなことを思ったりしています。