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【昭和講談】幕間の思索⑧ 私家版的「伝統を現代に」

 「昭和講談」を始めて、もうすぐ一年になります。進歩、深化もありますが、力不足を痛感するばかり。続ける意味があるのだろうか、と煩悶しきりです。

 史実を基にしつつ、どう自分内で消化するのが難しい。「たしか、あの人が始めたものだったよな……」と思って、始めてみたら、実は、優秀な参謀がいて…、となると、「マジか! ほんなら、この人の印象が薄くなるやん」
 みたいなことが起こる。何冊も資料を読み込んで……なんてことはなく、数冊の自伝、評伝を読み比べつつ、切り貼りしながら台詞を書いていると、どうしたって主人公の個性が薄くなってしまうんです。

 花登筐さんの回で悩んだのが一人称です。「ボク」なのか、「オレ」なのか。それで、言葉の印象が大きく変わります。
 それどころか、それを間違えると、半端なく嘘臭さくなる。でも、自伝を 読んでもなかなか出て来ない。全て「私」です(確かそうでした……)。

 花登さんの自省場面が出てくる度に、こちらの方が悩む……。この時の焦りは大変なもので、作業はパタッと止まります。
 そんことで迷いながらで、とてもキャラ付けなんて出来ません。(自分の能力の無さが問題なのですが……)

 そんなことを抱えながら、書いていると、『昭和講談』を書こうと思った出発点が揺らいできます。
 その出発点とは、「話芸のスキルで現代的なものを作れないか」です。

 新作落語なんかは、まさにそれです。落語に限らず、講談、浪曲にも新作・創作はある。
 歌舞伎だってナウシカを題材にしていますから、こちらがやろうとしていることは別に、「新しいこと」とは思っていません。

 それでも、話芸のスキルを活かせる形での物語やお話を出来ないものかと、取り組んでいる次第です。

 例えば、講談でも、「紺糸縅の小具足に、白檀磨きの小手當脛當」(夜討曽我)と歯切れのいい言葉があるが、その様子がイメージできますか? となると、出来ない人の方が多いのではないでしょうか。

 それならば、歯切れの良い言葉で、今ある物事を現した方が良いのでは、と思ってしまうのです。
 例えば、「三元豚の肉厚ロース パッドに揺蕩う溶き卵 サッとくぐらせ、粗びきパン粉に放り込む 肉の弾力感じる程 ここで力んでパン粉をつける」みたいな。
 “てにをは”が付いて、「歯切れよく」とは行かないかも知れませんが、とんかつを作っているというイメージはしてもえると思います。

 こんな現代的な叙事を入れながら、物語を紡いでいく。
 物語自体はシンプルでいいと思っています。でも、描写については細かくしてあげた方が良い。
 その描写と、登場人物の心情、感情、葛藤、懊悩を重ねていく。それが、聴いている人の頭に情景として浮かんでくる。

 これが、演者の話芸と物語が結びつくことで、聴く人の心に“何かを”訴えかける。
 そんなのが出来ないかなぁ、と思っている次第なんです。

 それとは違う方向もあります。
 それが玉川カルテットの「金も要らなきゃ、女も要らぬ、わたしゃも少し背が欲しい」という浪曲(節)の名文句。
 ただただ面白いの一言。こういうのもいい。例えば、サラ川から文句を引っ張って、節をつけるのはどうだろう。
 「いい夫婦 いまじゃどうでも いい夫婦」
 「タバコより 体に悪い 妻のグチ」
 「我家では 子どもポケモン パパノケモン」

 別に、節に乗せなくても面白いですが、節に乗せたらどんな印象になるか。
 こうした実験も経つつ、面白フレーズの節モノを発展させていくのも、一つの手ではないかなと思ったりもします。

 とりとめが無くなってしまいましたが、日本語の口調が面白いことは確かだと思います。
 後は、それをラップの方向ではなく、講談や浪曲といった演芸の方で、もっと知ってもらう、と言うか、もっと親しんでもらうこと。
 それが、私家版の「伝統を現代に」という思いです。


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