木を見て森を見ずとは果たして正しいのか?

えー、こんばんは。にだいめです。お久しゅうございます。昨今、こんな報道を拝見しました。

いやはや、なんと言いましょうか。この手の話は本当に店舗側にとっては恐怖の何ものでもない話です。しかし「これは米国の話だから日本は大丈夫」なんてことは一切、通用しません。私は国と国に対して差なんてものはないと考えております。この手の話は日本でも実際に起こっているのです。怒りに身を任せた暴言により、幼い子が職を失い、店主は様々な意味で頭を抱える。なんという悪循環なのでしょうか。更に言ってしまえば、その従業員が中々の技術者であった場合、店にとって失うものは大きいでしょう。

どうしてこんなことが起こってしまうのか。これに関しては私はこのnoteを初めてから口酸っぱく申している「人間力」に関わってくる気がします。私は自分自身を含めて人間というのは「業(カルマ)」の肯定と否定を繰り返し続ける生き物であると思っております。ですが、世間はそれを嫌います。その特徴として考えられるのが「YES or NO」の二者択一の世界を人々は知らず知らずに作り上げ、それに従わない者を中途半端という烙印を押して、使い物にならない奴という扱いをするイメージがどこかにあります。要は私が言いたい事は「何かに所属していない」とか「何かに従事していない」とか「何かモットーがない」とか「何か決定打がない」という「安心できない」部分に対して、人はそれに対し、否定的であるということなのです。だからこそ、人は「意思」を示したり「信頼」を得たり「共感」を感じさせたりして、自身の存在意義というのを示し続けます。これが私が非常に嫌う二者択一の世界です。私はこんなにも可能性を踏み潰す行為をして何が楽しいのかと思うのです。

では、冒頭の業の肯定と否定に話を戻しましょう。我々は業というものを常に肯定し、否定しております。それは皆様が一番よくご存知でしょう。人は感情を持ち続ける限り、そこに潜む煩悩によって簡単に業そのものに対する考えを変えることが出来るのです。正直、業は人間力そのものではないかと思うことがあります。ただ、業というのはあくまでも霧の様に「見えるようで実態が掴めないもの」でもありますので、それを数値化し、比較するなんてことは全く出来ず、常にそのあやふやなものに弄ばれ続けます。世間はそれを嫌い、業そのものを常に肯定させ続けるようなメッセージを発信し続けますが、残念ながらそれは民主主義である限り、表現の自由が許されているからこそ、業というのに国民全員が肯定をすることはあり得ない話なのです。

私は業を肯定すべきだとは一切思っておりません。正直、私の考えは福本 伸行先生の作品である「カイジ」の利根川の名言であります「世間はお前たちの母親ではない」という言葉を胸に仕舞っているのもありまして、だからこそ自立心というのを尊重しております。これは業という考えと非常に噛み合いが悪いと私は思っております。それは何故か「結局、誰かを蹴り落とさなければ自分が落とされてしまうからこそ、一番、自分自身を大切にしなければならない」即ち、それは私は業の否定に近い考えだと思っております。世間は常に戦場です。我々は常に何かと競争し続けているのです。ただ、それが目に見えないだけで、それらが業の擬似的な肯定を行なっているだけの話なのです。だから、私は業の肯定はすべきだということはしないのです。それをしてしまった場合、私は商売をやめる必要があります。

さて、話を戻しましょう。今回、世界中の飲食業で起こりつつあるこのトラブル。これに対する回答というのは本当に難しく、だからこそ私はnoteで「こう考えた方が律儀だと思う」という持論を展開しているのですが、五月に入ってから印象強くなってきていることは「貧困」という名の死神が皆の首に手を掛けてきている意識をする方々が非常に多くなったという点です。こればかりは本当にどうしようも出来ない部分があり、我々もその死神に今、殺されかけています。これらがある意味、負の連鎖反応を起こしているのでしょうね。まぁ、この状況ですし業というのは自然に否定に傾くでしょう。

それがダメなのです。

業というのは意識をもって否定すべきなのです。自然な否定は本当に自身の価値を下げます。意識せず否定してしまった業に対して、肯定しなおす作業ほど惨めなものはありません。この状況だからこそ、やれることはやってみる。それで見つかる何かがあるかもしれない。それを考えずに「何をやってもダメなんだよ」という考えが業を自然と否定しているのです。私は業というのを常に意識しているつもりです。業を見失った時、それは自分自身そのものを見失っているとも思います。それがタイトルの「木を見て森を見ず」とは本当に正しいのか、という問いかけに繋がります。

元々、木を見て森を見ずとは「細かい部分にこだわりすぎて、大きく全体や本質をつかまないこと」という意味です。ですが、私は思うのです。昨今は様々な情報が簡単に手に入りやすく、且つ、その情報の量は凄まじいものです。それらをもし、本気で扱うのであれば、細部まで徹底に管理し、吸収し、自分自身に反映すべきかもしれません。ですが、それを行うには熱意が絶対必要であり、中途半端な吸収は誰でも出来るのです。自分自身にしか出来ない形で扱うからこそ、その情報に真の価値が出てくるものなのです。しかし、昨今はその作業を簡略化させる便利なツールが多く存在します。私はそれらが「大きく全体や本質を掴んだ気にさせて細かい部分へこだわる熱意を削る」ような気がするのです。要は「森を見て木を見た気になる」ということなのです。

私はこの「森を見て木を見た気になる」行為こそ、人間力そのものを溶かしているようにも思えます。正直、今は大きな物事や本質なんかどうでもいいと私は思ってます。大切なのは細部。細かいところに気配りが出来るからこそ、相手を想うことが出来ると私は信じております。それには本質なんてどうでもいいのです。細かいものを追っていけば、自ずと本質にいつの間にか辿り着いているからです。

「米国の話だから日本は大丈夫」という考え自体が私からしてみたら「森を見た気で木を見た気になる」そのものです。そしてこの手の話は日本でも起こり続けると思います。その時、我々は一体、どの様な対応を取ることが正解なのか。それを得るには森を見ている場合ではないのかもしれません。