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仮面とバイク、そして血【シン・仮面ライダー】

※本記事は一部ネタバレを含みますので、未鑑賞の方はお気をつけください。


仮面の男

 男は拳を振り抜いた。その重い拳は相手の頭蓋を砕いた。

 固いはずの物体が大きな力で潰されるような、嫌な音がした。

 振り向きざまに別の相手を殴る。次々にやってくる敵たちを倒すうちに、あたりには血溜まりができていた。

 血、血、血。

 拳はどんどん血で重くなっていった。

 男の手はもはや人間のものではなくなっていた。皮膚は変色し、爪は鋭く、昆虫を思わせる節のような指先は、既に見慣れた自分の手ではない。

 人間の血で濡れた、人間のものではない自分の手を見ながら、彼は狼狽えた。自分は人を殺したのか。なぜ平気でいられるんだ。

 仮面に隠れた彼の心は、大きく揺らいでいた。

感想・評価の概要

 ”シン・仮面ライダー”を観てきた。

 僕は以前、流行に乗ることを是としていなかったが、数年経って過去に流行した作品を鑑賞した挙句、きゅんきゅんする気持ちをどこに伝えればよいか分からない、という経験をしたので、同じ轍を踏まないように、時流には敏感に生きようと心がけている。

 本作はかなりの注目度を集めている作品である。説明不要かとは思うが、”シン・仮面ライダー”は”エヴァ”の庵野秀明が実写映画の監督をした”シン・ゴジラ”、”シン・ウルトラマン”に続く、昭和の特撮映画のリブート作品である。

 庵野監督の実写作品は、古くから多くのファンが付いている特撮映画を再構築したものである。そのため、それらの作品の評価は賛否が大きく分かれている。一部の古参ファンからすれば、庵野監督の実写映画は、オリジナルの作品の”私物化”であるらしい。

 今回は、実際に”シン・仮面ライダー”を観てきたので、どのような映画であったか、自分なりの感想と解釈を簡単に書き綴っていこうと思う。

 まず、本作”シン・仮面ライダー”に関する僕の感想は、”面白かったし、格好よかった”である。後述するシーケンスの不自然さや私物化かどうかの議論はあるかもしれないが、それを補って有り余るほど、しっかりしたコンセプトで且つ、良いシーンであふれていたように思う。

 この映画のコンセプトは何だったのか?次に僕なりの解釈を示していきたいと思う。

特撮、あるいは時代劇における血飛沫

 血はこの映画の大きなコンセプトの一つだろう。映画はバイクと巨大トラックのカーチェイスから始まり、この記事の冒頭で書いたシーンに移る。迫りくる敵たちを次々と倒していく。血でまみれたその拳は、観客である僕たちをも殴るような重さを伝えてくる。

 昭和から続く日本の特撮において、ヒーローが敵を倒すときに血が噴き出るというのは異質である。特撮ヒーロー作品の主なターゲット層は少年少女たちであった(※1)。その歴史から、暴力やグロテスクな表現はなるべく控えめにしなければならない、というのは無理からぬことだ。

 この血の表現は、冒頭の場面のみならず、映画全体を通して散見される。特に中盤、仮面ライダーである本郷がライダーキックで敵を斃し、ヒロインと向かい合うシーン。血に濡れた右足を見た彼女は、本郷が仮面ライダーとして戦う決意を固めたことを知る。

 さらに、映画の終盤では、仮面ライダーの仮面が血で汚れる場面がある。ボロボロになった彼らは、敵と自分の血で汚れながら戦う。そんな彼らの姿は戦うことの後味の悪さのようなものを感じさせる。

 戦いを血で表現する、というのは一見、安直に思えるかもしれない。だが、日本映画の歴史を見れば、戦いと血の表現の関係はそれほど単純でないことが分かる

 たとえば時代劇。日本の名監督、黒澤明が”椿三十郎”で表現した出血のシーンは新しかった。映画のラスト、手練れの剣客二人がにらみ合っていた。二人がゆっくり刀に手を伸ばす。そして次の瞬間、大量の血が噴き出した。三船敏郎演じる椿三十郎の居合の剣が、相手の急所を捉えたのだ。血だまりに沈む剣客を見下ろし、椿三十郎はその場を後にする。

 この居合と出血のシーンは誰も見たことがないような映像だったが、それは多くの模倣を生んだ。”椿三十郎”以降の時代劇の中には大量の血飛沫が使われる作品が多い[2]。その頃の時代劇はリアル志向を実現するための要素として、血飛沫を使ったのだろう。だが、模倣された作品の中には、ただ人の蛮性に訴えるための刺激を与えるのが目的で、出血のシーンを使っているものがあるように思える。

 古代ローマの言葉で、パンとサーカス、という言葉があるが、実際はパンと血であった[3]。その血は古代ローマで見世物として戦った剣闘士達のものである。詩人ユウェナリスは、ローマ市民たちが十分な食料(パン)と剣闘士たちの血による娯楽(サーカス)を与えられていることによって、市民たちが政治的に無関心になっていると指摘した。血飛沫を上げ、人が死んでいく様、それはすなわち古代から続く娯楽であったのだ

 だが、人間の本能赴くままに刺激的な映像を盛り込んでも、それは映画とはいえない。もしそれが良しとされるのであれば、すべての映画は暴力とポルノであふれるだろう。それらの要素を全否定はしないが、新しい創作物として世に出すのであれば、工夫が必要である。

 日本の映画もそのような歴史をもって、洗練されていった。時代劇も次第に過剰なリアル志向は抑えられていった。

 庵野秀明は映画における表現力が傑出している監督である。アニメや実写の映画監督として世界的な名声を持つ押井守監督は著書の中で、庵野監督の物語に関する無頓着さやテーマの無さを批判しつつも、次のような事を書いている[4]。

一方で表現や文体はと見れば、異化効果どころかラフ原レイアウトもあり、セルまでひっくり返す徹底ぶりで、正直言って劇場で見た時は仰天しました。
ワタシでもここまではヤらなかった。
「庵野は決してバカではない」どころか、その表現に関する自己批評のありようから察するに、アニメという自意識の持ちようは、これは見事なものだと感心した記憶があります。
押井守「世界の半分を怒らせる」[4]kindleの位置No.617

 表現の鬼である庵野監督。彼が映画における血と戦いの歴史を踏まえず、安直な表現をするとは思えない

 最後の敵へ向かう途中で、二人の仮面ライダーは立ちふさがる敵を大勢斃す。派手なキックに爆発、そして勝利。快哉を叫んでもおかしくないシーンで、仮面ライダーの二人は少しの間、どちらともなく俯いた。僕には彼らが、斃した敵を弔い、黙とうをしているように見えた。

 この場面では出血の表現こそない。だが、これまでの血に塗れた戦いのシーンが、彼らに、そして僕たち観客に、勝利に酔うことを赦さない。

 この映画の全体を通して出てきた血の表現は、戦いの悲しさや後悔、後味の悪さ、それでも前進する勇気を、言葉より雄弁に表しているのではないだろうか。

シーケンスの歪さとカットの美しさ

 本作はいくつか不自然なシーンの連続(シーケンス)がある。例えば敵であるコウモリのオーグが建物から逃げたと思えば、急に別の場所の上空にいたりする。すごく気になる、というほどではないが、違和感を覚えるのは事実だ。

 ヒロインの遺言のシーケンスも歪さを感じる。潜伏先の建物の横で撮影されたヒロインの遺言だが、そのシーンは一度途切れ、別のタイミングで撮られたヒロインの映像が流れる。わざわざ分ける必要があったのかは少々疑問である。

 さらに、急に挟まる説明口調のセリフもシーケンスの不自然さを助長させる。「仮面ライダーと名乗らせてもらう」などのセリフは、もう少し何とかならなかったのか、と思わなくもない。それらのシーケンスの不自然さがこの作品の否定的な意見の一因であるように思う。

 だが、美しいシーンは徹底して美しい

 先に触れた、本郷が敵を斃しヒロインと向かい合うシーンでは、電車の線路を絡めた情緒的な構図になっている。血でぬれた右足から、ヒロインが仮面ライダーの決意を見て取った重要なシーンである(※2)。このシーンがこの映画の重要な転換点になっているのだろう。

 また、この映画は高速で回転しているトラックのタイヤのアップで始まる。バイクを追うトラックの重量感はすさまじく、道路にバリケードを作っているパトカーを吹き飛ばす。

 そのシーンはかなりの迫力であり、そして新しい構図だ。特にパトカーをトラックが吹き飛ばす瞬間、画面は俯瞰で、かなりの引き絵になる。パトカーをトラックで吹き飛ばすというのは、結構予算が掛かるシーンだと思う(多分、パトカーは安くない)。予算をかけたシーンであれば、間近から撮影したいのが人情であろう。だが、その場面は遠くから撮影された抑制されたカットである。このカットのおかげで、この映像の奥の立体感のようなものが現れたのではないかと思う。

 その他にも、浜辺で夕陽を浴びて主人公が佇んでいるシーンや、仮面ライダー1号、2号が二人そろってポーズをとり、眼が光るシーンなど、美しい(あるいはカッコいい)と思えるシーンは多かった。

 不自然なシーケンスと美しいカット。このある種のクオリティの偏りについては、リソースのかけ具合のばらつきがあるのかもしれない。庵野監督が制作の期限内で映画を完成させることができず、公開を延ばすというのは、何回か聞いたことがある。想像ではあるが、すべてのシーンの作りこみを徹底しようとして、逆に予算や時間、人的リソースを最適に分配出来なかったのではないか、と思う。それが、徹底された美しいカットと歪さを残したシーケンスの理由ではないか。

庵野監督の私物化映画?

 庵野監督の実写映画は、今まで古参のファンが付いていた歴史がある作品のリブートがほとんどである(”キューティーハニー”、”ウルトラマン”、”ゴジラ”、”仮面ライダー”)。それゆえに、オリジナルのファンからは作品の”私物化”であると言われることが多いようだ。

 まあ、言わんとすることは分からないでもない。確かに今回の”シン・仮面ライダー”で新たに追加されたプラーナの設定は、正直あまり映画を良いものにするという観点で効果的だったとは言い難い。観客を混乱させる設定は確かに身勝手な作り方に思える。

 加えて、観客に伝わらないであろう台詞回しも一因かもしれない。例えば敵であるコウモリオーグと対峙する場面で、バットバイルスという言葉が出てくる。バットはコウモリであるが、バイルスとは?そう思った直後にウィルス(virus)の英語読みだと気が付いた。僕はたまたまウィルスのスペルも読み方も知っていたが、普通に生活していたらバイルス=ウィルスは結びつかないのではないか(生物学を研究していた僕でも少し遅れて気が付いた)。

 さらに、OSINTSIGINTなどのスパイ用語も出てくる。OSINTは”Open Source Intelligence”、SIGINTは”Signals Intelligence”の略で、それぞれ”公開データを用いた諜報活動” と”電気通信技術を用いた諜報活動”を指す。これもSF好きやスパイ映画好きでないとあまり知らない単語だろう。観客を置いてきぼりにしている点で、確かに私物化という批判はされても仕方がないかもしれない。

 ただし、一方で明らかに往年のファンへ向けたシーンも存在する。決めポーズはその代表であろう。ここ一番の見せ場で持ってきたこのシーンはとても熱かった。

 また、中盤のシーンで、仮面ライダーの左足が通常の関節の向きと逆に折れるシーンがある(非常に痛そうである)。この左足の骨折のエピソードは、初代仮面ライダーを演じた藤岡弘、の実際の逸話から来ている[5]のではないかと思う。

 そういった意味では、確かに一部のシーンで観客を置いてきぼりにしている一方で、ちゃんとファンの観たいものを示しているようにも思う。

まとめ

 本作には否定的な意見も多い。先にも触れたが、シーケンスの不自然さ、設定の妥当性の薄さなどが原因だろうかと思える。ネットを見ていると他にもキャストへの不満や庵野監督の代表作であるエヴァンゲリオンっぽさがにじみ出ているとの意見も見られた。

 ここまでレビューを書いておいて何だが、僕は庵野監督のファンでもなければ、仮面ライダーファンでもない(エヴァとシンシリーズは一通り観たし、平成ライダーはちょこちょこテレビで観ていたが)。ただ、ファンではないのだが、特にネットで出ているような不満は感じなかった。確かに色々な用語が出てくるし、ストーリーも最高とはいえない(そもそも庵野監督がストーリーに興味がないというのもあるだろう[4])。だが、僕はこの映画がとても面白いと感じた。

 もしかしたら、僕が映画を観るときにあまり設定やセリフを気にしないことが原因かもしれない。文章を書くのも読むのも好きだが、映画の鑑賞において、言葉にさほど興味がない。当たり前だが、映画は映像を映すものであるからだ。

 言葉よりも雄弁な表現こそが、映画の本質である。この映画のコンセプトとそれを表現するためのカットは美しかった。だから、僕はこの映画が好きである。

備考

※1. 昭和の特撮映画の原点であるゴジラは「反核」や「人間の恐怖」を煽り文句としているので、必ずしも少年少女的なコンセプトではない[1]。だが、そのゴジラも徐々に怪獣同士の戦いやロボットとの戦いなどの娯楽要素が強い作風になってきており、少年少女に人気を博していった。

※2. このシーンは公式のyoutubeの予告でも使用されている。

参考


1. wikipedia「ゴジラ」のページ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%B8%E3%83%A9

2. wikipedia「椿三十郎」のページ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%BF%E4%B8%89%E5%8D%81%E9%83%8E

3. wikipedia「パンとサーカス」のページ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B9

4. 押井守「世界の半分を怒らせる」幻冬舎文庫.幻冬舎

5. wikipedia「藤岡弘、」のページ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B2%A1%E5%BC%98%E3%80%81


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