【忘れえぬ魔女の物語】上手さが突き抜けることをある時代では芸術と言った
レビュー
『忘れえぬ魔女の物語』という小説を読んで、思うことが、二つありました。
"知的な諦観"と"卓越した文体"についてです。
『忘れえぬ』は宇佐楢春さんが書いた小説で、第12回GA文庫大賞の金賞作です。
このお話は、相互理解を諦めている主人公に、何の気無しに、そして真摯に、近づこうとする女の子(たち)の物語でもあります。
そして先に述べたとおり、このお話のポイントは"知的な諦観"と"卓越した文体"だと思います。
この物語の大部分のトーンは諦観で占められています。主人公は自分と他の人たちの差異を実感して、沢山のものを諦めているからです。深い関係、相手からの理解、退屈、帰属意識、世界の構造、運の悪さ等。
何か諦める時には、知性がなければいけません。知性が欠如した諦めは、往々にして見苦しく、結局のところ過去を引きずることになります。いつまでも過去の自慢話を肴にお酒を飲んでいる人の姿はあまり気持ちの良いものではありません。
上はキリスト教で口承されているニーバーの祈りの一節です。この言葉は諦めるということに関して、本質的な解答を与えていると思います。すなわち、変える事と変えられない事を見分ける知性無くしては正しく諦められない、という事です。
この話では主人公は身の回りの多くを諦めていますが、なかなか歯切れの良い見切り方をしています。これは優れた観察眼と判断、そして異常な記憶力によるものだと思います。このような知性が故に主人公はかろうじてヒトの精神性を保っているのだと思います。
ですが、この物語は、諦めるだけで終わりません。変えられないものだから、変えられない。こんな馬鹿げたセオリーをひっくり返すべく、主人公は行動します。
主題にこのような対比が含まれている気がして、中々嬉しくなってしまいます。
また、本作の卓越した文体は"諦め"というテーマを取り扱うのに非常に適していると思います。
文章のトーンや細かい言葉の選択の累積が作品の一貫性を消してしまうことは往々にしてあります。それが"知的な諦観"なら尚更、取り扱いは難しいのではないかと思います。ですが『忘れえぬ』では、それをある種皮肉な機知を織り込んだ文章で、シリアスなのに暗くなりすぎず、難解と捉えられかねない話の筋でも可読性を損なわないことに成功しています。
ある種の卓越した文体は作品の持つ意味を変えてしまうことすらあります。そういった意味では、この作品は物語の対比と文体が非常に巧妙に機能しているのだろうと思います。
絵画の歴史では、ある時代までは写実性や技術の高さが価値だったそうです。上手さが突き抜けることが即ち芸術だったのです。この作品は突き抜けた上手さをもって芸術性を獲得しています。
思ったこと
ひとつ、この作品において、私が受け入れられなかったことがあります。それはこの作品の主題です。
この作品の主題は、あとがきに書いてあることが一番わかりやすいと思います。
このメッセージに、私は真っ向から反対したい訳ではありません。パンを食べるためには生きていてはいけないし、肉体は精神の牢獄だし、生きるのは手段で目的じゃありません。
もちろんそうなんですが、でも、生きるために生きるという、頭の悪いトートロジーを全力で必死にやる人は、沢山いるはずだと思えるのです。
生きる目的を生きる以外に設定するのは、生活が安定している必要があります。何かに向かって努力をするのに、環境を無視することはできません。もし貧乏だと努力するのもコストがかかります。
明日生き残ることに命をかける人も大勢いるんだと思います。
"ただ生きて、ただ死にたい"ひとも、たくさん。
必死に生きることに真摯に向き合うひとだっているはずです。
それらに価値が無いとは、どうしても思えないのです。
なので、この主題は受け入れられませんでした。思想も正義も理念も命についていると思うからです。
他の何かが自分の命の価値を超えることがあるのは、理解します。ですが、"生きるために、生きる"を棄却するものではないんだろう、と思います。
実は私も、自分の命以上のものを探しています。そして、今までの人生でいくつか見つけたように思っています。
でもね。それを見つけられなかった頃の自分のことを、生きるだけの自分のことを、私は、わらえなかったし、おこれなかったです。
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