思い出の天王寺、阿倍野のお写んぽ。
今日は天気が悪かったですね。
降るだろうなって思って防水のオリンパスのコンデジを持ち出しました。
お気に入りのカメラです。
朝からどこに行こうか迷ってしまって、結局天王寺までの切符を買った次第です。
天王寺まで行くとだいたい撮影コースは決まってしまいます。
天王寺、新世界、日本橋、難波、道頓堀、そして北新地か京橋あたりというコースは自分の撮影コースの定番です。
そうなるのも寂しみいので今日は阿倍野あたりも軽くうろついた。
このあたりは平日でも人が多くて苦手なんですね。
梅田とか道頓堀も人が多いけども人の質が違うのね。
庶民的なんですわ。
買い物のお婆とかが結構多い。
あと若いお母さんね。
ママチャリ乗ってるあれですわ。
梅田、道頓堀界隈ではあまり見かけないけども阿倍野界隈は庶民の街なんですね。
こういう場所って人目が気になってしまって写真撮りにくいのね。
小さな子供を持ったお母さんとかの目って写真撮ってると意外に気になってしまうんですね。
写真は撮るけども何か変なことするわけでもないのですがね。
天王寺、阿倍野界隈は色々と思い出のある場所でして特に阿倍野界隈歩いてるとあの頃を思い出す。
昔通っていたアルコール依存症の病院の帰りなんかに阿倍野や天王寺をよくうろついて写真を撮ってました。
昔の悶々としてた頃の思い出が詰まった場所が阿倍野だったし天王寺なので、このあたりを歩くと当時のリアルな思いが蘇ってくるんですね。
病院に通う以前にも時々阿倍野あたりを歩くこともあった。
あべのベルタっていう商業施設があるのですが、そこの地下の1階だったか2階にジーンズ屋があって、そこで何本かジーンズを買った記憶がある。
あべのベルタって今もそうですが昔から客が少ない商業施設で、ジーンズを買いに行ってもいつも自分以外に客がいたことがなかったですね。
自分はいつも客のいないその店が好きだったし、そこの店のオーナーがいつも親切に自分にあったジーンズを選んでくれたのを今でもよく覚えてる。
その店に客がいるのを見たことがなかったので、こんなんでやっていけるのかな?っていつも思ってた。
今日阿倍野界隈を歩いていて、あべのベルタのあそこのジーンズ屋があるのか見に行きたかったので、あべのベルタに立ち寄ったが当時あったジーンズ屋はもうなくなってましたね。
かれこれ20年以上前の話なんですが、今もあのジーンズ屋が残ってたら奇跡だろうなって思いつつ、あべのベルタを後にした。
あべのベルタの近くに図書館があって、アル中病院の帰りに時々そこの図書館でも時間を潰した。
図書館の前まで行ったけども当時を何も変わってなかった。
あまりも昔のままだったので、当時の自分がヒョイって現れるんじゃないかと思ったくらいだ。
阿倍野というと今では大きな商業施設のキューズモールがあります。
この商業施設の建ってるあたりって昔は昼間っから飲んべぇが集まる一杯飲み屋が何軒かあった場所です。
昼間っから酔いつぶれたオッサンがそのへんで寝転がってた。
今では再開発で巨大な商業施設ができたこともあって、昔のような治安の悪さが一掃されたようだ。
あの当時、自分はこのあたりをよくモノクロフィルムで撮ってたので、いずれ近いうちにこの頃のモノクロフィルムからの写真をnoteにあげようと思ってます。
そうそう、昔このあたりをペンタックス67を持って撮り歩いてた元田敬三を見たことがありましたね。
大きなカメラ持って阿倍野あたりをさっそうと歩いて、所々で立ち止まってシャッターを切ってる人がいて、その動きやレンズの先を見てると只者でないな、って思った。
その時は雑誌で見たことのあった元田敬三に似てるなってくらいにしか思ってなかったのですが、そこから数年後にアサヒカメラだったか日本カメラだったか忘れたけども、元田敬三が阿倍野界隈と67で撮った写真が掲載されてたので自分はあの時のあのペンタックス67のカメラマンは元田敬三であったことを確信した。
元田敬三が阿倍野近鉄出入り口付近で写真を撮ってるのを自分は少し離れたところで見てたのですが、その時撮ってた写真がそのまま雑誌に掲載されてたので「やっぱり元田敬三だったのか」と思った次第です。
自分も同じ場所で撮ることもあったので、元田敬三がそこで何を撮っていたのかすぐに分かった。
当時の自分は天王寺界隈をリコーのGR1とかオリンパスのμ2とかでたくさん撮ってましたね。
ほんと懐かしい。
その後アルコール依存症から回復して社会復帰した後にに当時の天王寺界隈のネガ見ると吐き気した。
アルコール依存症で毎日悶々としつつデイケアで病院に通っていたことをリアルに思い出して気持ち悪くなった。
でも、今だったら当時のネガと向き合えると思う。
また近い内にアップできたらって思ってます。
久しぶりに阿倍野界隈を歩いていたら上の写真のようにショーウィンドウに映った自分の姿を撮りたくなった。
当時の自分は森山大道に傾倒していた頃で、当時の自分はよく森山大道の真似してショーウィンドウに映った自分の写真を撮ったし、斜光の街を撮り歩いてる時にアスファルトに映る自分の影を撮ったりしたものだった。
今だったらこういう写真は撮ることはないのだけども、こういう恥ずかしいことができるのも阿倍野の街だらかだと思うのですね。
当時の自分と違って今の自分はメンタルも安定してるし、自分のことをちゃんと肯定もできるようになった。
そして一滴も飲んでないし、いつもシラフで生きている。
当時通っていたアル中病院ですが、今は名前が変わってしまっていた。
院長が亡くなってしまったのかも。
今もアル中病院当時のまま残ってるけども、当時のように病院の出入り口にアル中が屯してるのを見かけることもないし今はどうなってるのか知らない。
さてさて、自分はそこのアル中病院のお陰でアルコールと手が切れて今に至るわけですが、当時病院のデイケア帰りに近くの四天王寺に立ち寄って手を合わせに行った。
当時は自分の将来の先が見えなかったし、困った時の神頼みで四天王寺に行ったもので、その頃から現在まで四天王寺にはちょこちょこ撮影の合間に立ち寄ってる。
7月に親父が他界したのですが、なんの縁なのか親父の骨は現在四天王寺に納骨されている。
親父の納骨に関しては兄貴夫婦が話を進めてたことで、親父が四天王寺に納骨されることは自分は一切関与してないので、親父が四天王寺に納骨するって話を聞いた時に。過去と現在の点と点が線でつながったような不思議な感覚になった。
今日、阿倍野に立ち寄ったあとに四天王寺に立ち寄ったのですが、自分はいつもの天王寺の撮影コースに四天王寺があるので、これからは撮影の合間になにげに親父に会えるわけですが。
なんか不思議な感覚です。
しかし、自分も天王寺との縁も長いですね。
そういえば自分がアルコール依存症で病院に通っていた時に撮った天王寺や阿倍野界隈の写真をプリントしてまとめようと、一時夜な夜なプリントしていたことを思いだした。
途中でやめてしまったけども、時間を作って当時のネガをコンデジでスキャンしようかな。
自分はスキャナーを持ってないので、マクロに強いコンデジ使用してネガをスキャンすると思う。
昔の記憶、記録をネガを通じて再び撮影するようで、なんかドキドキしてきた。
そういえば定着不十分で抜けの悪いネガもたくさんあったような・・・・
フィルムに関してはネオパンプレストを最初は使ってたけども、たくさん撮るようになってきてお金がかかってしまうので、途中からコニカパンにフィルムを変えて撮影するようになった。
フジのモノクロフィルムよりもコニカのモノクロフィルムのほうがかなり安かったのを覚えてる。
36枚撮りで230円だったと記憶してる。
当時のマイルドセブンも230円だった。
今では36枚撮りのモノクロフィルムが230円なんかで買えませんが、それを考えると時代の流れを感じますね。
ヨドバシカメラでいつも数十本単位でまとめ買いしてた。
米を買うような感覚で買ってたような気がする。
ほんと良い時代でした。
フィルム現像はコダックのD76で1:1の希釈で微粒子現像で仕上げてた。
結果的に微粒子に仕上がってよかったわけですが、当時の自分はどちらかというと現像液をケチって1:1の希釈で現像液を作ってたように思います。
原液使用すると粒子が粗くなるので、あとあと希釈現像しておいてよかったと思うようになった。
撮影に行くごとに36枚撮りのモノクロフィルムを4、5本消費してたし、撮影したその日にいつも現像していた。
今思うとよくそんなことやる時間があったなぁって思う。
今の自分だったら無理ですね。
たまに阿倍野界隈を歩くのも良いですね。
忘れてたこと思い出すし、過去の自分にインスパイアされるっていうか・・・・。
当時のアル中病院に通っていた時の自分が今の自分を見たらどう思うのだろう。
自分はこうやって時々、阿倍野界隈を歩くことで当時の自分と出会うわけですが、誰に写真を見せるわけでもなく、当時の自分は写真を展示するなんて夢のような話だったし、どこかで展示できたらいいなって思うことはあっても、当時の自分にはそのような未来が見えなかったですね。
そんな先の見えないところで何年も写真を撮ってた当時の自分に、今の自分は誇りに思えるわけですね。
今だったらブログやsnsなんかで気軽に写真を表に出せるので、ほんと良い時代になりましたね。
そうそう、天王寺mioの写真コンテンストに当時の自分は一度応募したことがあります。
話が長くなるので、またいつかその時ことをnoteに書きたいですね。
あれも今となっては良い思い出だ。