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カツ丼ソース太郎の、臨床ガイドラインを語るマーケティング


初めに

 現在ガイドラインは臨床において、絶対的ともいえる力を持っています。負のインフラとしての医療において上限のある医療資源を上手に活用する際に、無駄を省きながら疾患の治療に最大限の効果を求めるためには、効率的な治療を系統だって周知させることが必要なわけで、ガイドラインを活用することは当然のことであると理解します。認定医などの試験においては、その知識の網羅が重要性を増していることにもまったく異論は出ないことと思います。また、ガイドラインに治療法や医薬品が掲載されるということは、しっかりとした研究がベースになったエビデンスが認知されたということになりますので、その研究を主導したことは非常に名誉なことといえると思います。そして、実臨床におけるいわゆる良い先生というのは、ガイドラインをいち早く読み込み、臨床に適用し、新しい治療法(薬剤)を使うことのできる先生ということになるでしょうか。極めてわかりやすい図式に思います。

臨床ガイドラインが作成される状況

 ただ、個人的には最近少し違和感を感じています。まずなにより、このようなガイドラインのベースになっている研究の多くが、製薬会社主導による、または製薬企業の資金ありきの研究であることです。もちろん製薬会社は資金を提供するだけであることはよくわかっていますが、決して全く干渉していないというわけではないこともまた事実です。少なくとも研究をデザインする時点においては、たとえば評価項目などに対しておそらく製薬会社の意向が必ず介入してくるはずですし、そうでなければ資金の提供はしないということになっていると思います。おそらくこういったことは臨床試験が組まれ、結果が外に出てくるときには標記はされないことでしょうし、もちろんネガティブなデータを出そうとするような臨床試験はデザインされることさえないとも言えます。結局、表面上は客観的にみえるようなエビデンスも、実は砂上の楼閣のようにあやふやなものの可能性も少なくないと感じています。

ガイドラインを冷静に眺めてみると

 世の中は現在、DX(デジタルトランスフォーメーション)だ、そうだ、そうだ、という流れになって、デジタル化は素晴らしいんだという雰囲気が漫然と社会に広がっています。今回のコロナ禍で患者データをfaxでやり取りして、世界中から失笑を買った我が国ですから、そりゃまあ仕方ないよねと個人的には思うわけですけど、デジタル化の中にどうやって人間を組み込み、社会の有機的なつながりを保持するかという議論はもう少し進めなくてはいけないのかなとも感じています。とはいえ、デジタル化というのは白黒つけるという意味では極めて有用な手段です。人間の持つ判断の曖昧さに明確な指針を与え、余計な業務を削減するということでは当然の流れであることはよくわかっています。とはいえ、繰り返しになりますが、デジタル化がすべていいのでしょうかというと、これもまたすこし問題とおもえることもあります。たとえば、デジタルな記録の中で、誰かの名前が「カツ丼ソース太郎」と定義されている場合、デジタルなデータを盲信する人にとっては、またはデジタルデータを取り扱う機械にとっては、NGワードも入っていない疑う余地のない正しい名前であって、別に判断に支障が生じるようなものでもないこととなります。でも実社会においては、いや名前に「カツ丼」はないでしょ、こいつ変な奴みたいだし、とりあえず省いておこう、なんて話になるのがむしろ自然に思います。いえば、DXだなんだとかっこいいことを言っても、ときにデジタル化に隷属する、おバカな人間が大量に創出されるかもしれない危険性をはらんでいるように感じるわけです。
  ガイドラインの話というのは、概してこういう帰結を産んでしまう可能性があるように思います。たとえば、最近盛んにガイドラインからのサポートがおこなわれ、内科の世界では大流行りのある糖尿病薬ですが、外科系医師にとってはときおり悪夢のように感じるAEに出くわすこともあり、かなり閉口することも珍しくありません。そんなAEマネージメントのときに患者さんに聞いてみると、主治医の先生からなんの注意もされませんでしたので、こんなことあっても継続してましたなんてこともよくあります。それでもって、内科の担当医師に聞いてみたら、なにそれ、まあそっちで適当にやっといて、こっちはガイドラインの通りに糖尿病治療に使っていたんで、別に悪いことはしてないし、てな反応で、こりもせずに別の患者で似たようなトラブルに巻き込んでくださるなんてこともあるわけです。こういった事例は、もちろん処方する医師のパーソナリティーに依存するわけで、医者が悪い、薬が悪いとか、外科系の人間がスーパーアナログとかは言いませんが、少なくともこういった場合の処方した医師は、ガイドラインによる診療のデジタル化の結果としての、単なるアウトプットの機械と考えることも出来そうに感じてしまいます。ここでは、たまたま最近すごい勢いで処方を伸ばしていて、めんどくさいことに何度か巻き込まれたので、ある糖尿病薬を例に出しましたが、同じようなことが抗悪性腫瘍剤など他の分野の薬剤でも往々にして起こっていると感じています。もちろん、もっともやばい人間は、ガイドラインに何をかいてあるのか理解すらできない人間なのですが。

ガイドラインをマーケティングの一つとして、客観的に眺めることも必要

 ガイドラインは我々医師にとって、そして患者にとって、また保険医療にとって、高度な医療を系統立てて、そして効率的に提供するという意味で、本来なら非常に有益なものです。ただ、製薬企業のマーケティングのなかでは、如何にガイドラインに自社の薬剤を載せてもらうかという方向でマーケットリサーチを非常に細かく行なっているのが常になっています。結局は本来客観的で洗練されているはずのガイドラインが、圧倒的なマーケティング力を誇る製薬会社のブランディングに一役買っているというのが現実で、そこに述べられるエビデンスと言われるものは、やや恣意的なものを少なからず含んでいることを理解したほうが良いと考えています。

最後に

 ガイドラインはきわめて重要な臨床指針であることは疑う余地はありません。ただ、患者さんそれぞれには身体的、社会的、心理的問題が複雑に絡まった状態でいらっしゃるわけで、つねにガイドラインに完璧に沿った治療がお勧めできるわけではありません。したがって、ガイドラインを振りかざして、患者さんに治療を強要するようなことは避けたいと常に考えています。
 それはそれとして、学会で臨床試験を主導する医師の話をお聞きすると、「最近こんな臨床試験を主導して、製薬会社から学会事務局に〇億円のお金を入れてもらいました。どうだ、すごいでしょう。」なんてお話はよくお聞きします。もちろん、指導力のあるすばらしい先生だなあということで壇上の先生に拍手をしながらも、これはマーケティング手法にうまいこと操られている結果なのかもしれないと、研究に使用された薬剤の市場規模とかを大雑把に考えてしまうような穿った見方をして、また医療費がたくさん消費されるのだなあとちょっと考えてしまう、今日この頃の「カツ丼ソース太郎」でございます。


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