東京大学の授業料値上げに関する第3次声明

竹麻呂です。筆者個人の責任で、以下の通り声明します。

主文

  1. 東京大学の2025年度の授業料は、9月中旬にも実質的に決定される可能性があると推測します。

  2. 国立大学の授業料ひいては高等教育の機会均等に関する制度設計の考え方を示す必要があると考えます。

  3. 学生が意思決定に参画する大学の姿を具体的に構想することが望ましいと考えます。


これは下のリンク先にある第2次声明をアップデートするものです。

以下、解説です。

2025年度の授業料の決定について

7月3日に朝日新聞が「授業料増、入試要項と同時の発表見送りへ 東大、学内の反発に配慮か」との報道をした後、7月12日、11月の募集要項公表までに来年度の授業料を発表するとの報道が各社から一斉になされた。

少し解説が必要だろう。入試の要項には「入学者選抜要項」と「入学者募集要項」の2種類がある。7月12日は前者の「入学者選抜要項」の公表が行われた日で、各社の報道はそれに伴う記者会見を受けたものだ。後者の「入学者募集要項」が公表されるのが11月で、上に貼った読売新聞の記事では11月に「授業料を記載した2025年度入学者の募集要項を公表する予定」としている。入学者選抜要項や「大学案内・選抜要項・募集要項」のページの記述では、11月中旬に公表予定となっている。

さて、繰り返しとなるが、授業料を値上げするには、経営協議会教育研究評議会での審議の後、役員会の議を経る、という手続きをもって規則を改定する必要がある(東京大学「総長対話」という欺瞞)。そこでこれらの会議の日程を開示請求していたのだが(【東大授業料値上げ開示請求・その1】行った開示請求の内容を解説します)、期限が延長されたあげく、結局のところ具体的な会議日程は開示されない公算が高くなった(【東大授業料値上げ開示請求・その4】決定通知書が届きました)。しかし、部分的に公開されている情報は存在するほか、ウェブサイトに掲載されている過去の会議の情報から推測可能な部分もある。

まず、前にも使った手だが、総長選考・監察会議令和6年4月23日の資料の11ページ(資料5、PDFとしてのページ数は12ページ目)には経営協議会が総長選考・監察会議と同日に開催される場合にその旨が書かれており、9月18日(水)と11月13日(水)には少なくとも経営協議会が予定されていることが分かる(完全に余談だが、総長選考・監察会議と経営協議会が同日に開催されることが多いのは、前者の学外委員が後者から選出される仕組みであり、学外委員の負担を減らすために同日に集めているものと見られる)。その上で、経営協議会のページで各年度の開催情報を見ていくと、毎年度ほとんど同じ時期に開催されており、9月の次は11月である。また、令和6年3月15日経営協議会の配付資料には「令和6年度経営協議会開催日程」が含まれており、1年分の日程が年度当初(というか前年度末)に決められている様子も伺える。

教育研究評議会に関しては経営協議会と異なって今年度の具体的な日程は発見できないが、経営協議会と同様に各年度の開催時期は概ね固定化されているように見受けられる(ただしメール審議がある点は違いである)。そして具体的な時期はというと、これも秋に関しては9月の次は11月である(たとえば昨年度の2023年度は9月12日と11月14日)。

11月13日の経営協議会で審議してからさらに役員会の議を経て、それで募集要項公表が11月中旬、というスケジュールがあり得ると考えるかどうかである。役員会はそれなりに頻繁に開催されており、稀にだが経営協議会の議題が翌日の役員会に付議されている例もなくはないので(規則絡みでは、令和6年1月24日経営協議会令和6年1月25日役員会での「就業規則等の改正」や、令和3年6月23日経営協議会令和3年6月24日役員会での「東京大学基本組織規則の一部改正」など)、前後関係だけで見れば一応間に合うかもしれない。だが普通に考えて、その前の9月の会議にかけておく方が無難なスケジュールであり、事情が許せばその日程で進められる可能性が高いという想像は十分にできる。

ところで、東京大学新聞などの記事にもなっているが、8月下旬には総長から学生へのメッセージが出されている。

「総長対話」やその後のアンケートを受けてのものだというが、内容を読むと、授業料を上げないとは言っていないどころか、むしろ授業料を上げる必要性や値上げの弊害への対処について分量が割かれている印象を個人的には持った。検討プロセスについても1つのセクションが立てられているが、起きている事態への見解は示されているものの、その一方でこれからどうするかについてスケジュールを伴った具体的な言及が何もなされていないことは注目に値しよう。単なる筆者の妄想だが、これをもって学生の意見を聞きそれに対する応答も示したという形式的・表面的な体裁が整ったという状態にあるようにも見えなくはない。

という次第なのだが、読者諸賢の感想はいかがであろうか。

それから個人的には、総長メッセージが出てからの学生側の動きが鈍いような印象を覚えているが、どうだろう。あなたの指先で140文字を紡ぐことから始まる未来があるかもしれない。緑や赤のボタンを押すだけでもいい。授業料値上げの問題は終わっていない

国立大学の授業料と高等教育の機会均等

ここからはこれまでのnote投稿の焼き増しのようなものなので、軽く読み流していただいてもかまわない。

これは東京大学という一つの大学の問題であり、それは当初から今に至るまで変わらない。だが同時に、日本の大学・高等教育のあり方にまつわる議論も、それを取り巻くようにして進行している。「国立大学の授業料を150万円に」などというのはまだ極論の域を出ないと筆者は思っているが、日本私立大学連盟の提言なども出ていて、本気で制度が変わっていく可能性も否定はできない。

「取れるところから取る」というのは露悪的な言い方だと思うが、全体としては値上げをした上で、個別に授業料減免や給付型奨学金を施すことによって手当てできる、というのは一見合理的に見える考え方だ。これに対する説得力のある反論を提出し続けなければならない。早い段階で既に、次のような問いかけが出されていた。

すなわち、「あなたは、学費免除や奨学金の申請を自分でしたことがありますか?」。マスの数字で議論するならば、授業料減免や給付型奨学金で学生の金銭的負担は生じなくなる。だがそこには数字では見えない負担がある。入学者・受験生は3000人という数字ではなくそれぞれが一人一人の人生を歩んでいる。機会均等、マイノリティの権利、D&I。その理念をお題目だけでなく確かな実践とするために、授業料の問題、減免や給付型奨学金という論点を避けては通れないはずである。「自分は制度から想定もされていない存在であることを思い知らされました」という当事者の方の言葉と、私たちはどれだけ向き合えているだろうか。

6月10日の「駒場決議に付帯する自治委員会決議」では次のような項目が含められている。

自治委員会は、授業料減免措置の拡充は授業料値上げによって生ずるあらゆる問題を解決するものではないことを確認する。

この付帯決議の提出時に付された趣旨説明では、さらに詳しく問題を指摘している。

現在の申請方法では、授業料減免の可否は大学入学後暫くしないと明らかにならないため、高校時代に進路を選ぶ際の経済的心理的障壁の上昇を緩和するものではありません。そもそも進路選択の際には限られた情報にしかアクセスしませんから、授業料減免措置があることすら知らずに大学進学を諦める高校生もいるでしょう。また、仮に減免措置の対象になっていたとしても、対象学生は煩雑な申請手続きに追われることとなり、こうした手続きによって学習の機会を不当に損なわれる可能性があることも想像に難くありません。

親の収入は確かにありますが、家庭の事情が原因で授業料を自費で支払っている学生の存在も忘れてはなりません。特に修士課程・博士課程でそのような学生が多いことは既に述べたとおりであり、このような学生に対しては学費減免措置が適用されることはありません。

「総長対話」でもこのあたりの話題は比較的取り上げられたから、総長からの応答でもそれなりの分量で考え方が示されている。しかし、非常にありがちなのだが、授業料減免という制度の不足を指摘すると、それを改善すれば対応したことにされてしまう、という文脈のすり替えが起きている。

まず、授業料減免や給付型奨学金という特定の個人からの申請を起点とした制度は、問題の解決手段とはなりえないことを正面から認めるべきだ。

そして、東京大学という一つの大学の問題、来年度の授業料という直近の問題であれば、性急な値上げが適切だとは筆者には思われない

だがその一方、国公私立大学という形態のなかで、国公立大学だけが公的負担によって授業料を一律に安く抑えてきた、という状況もまた軋みをあげつつあるものだと認識されていることは、把握しておく必要がある。では国が全面的に高等教育の費用を負担すればいいのか。たしかに社会権規約第13条2(c)は高等教育の漸進的無償化を規定しているが、「漸進的」であって、直ちに全面的な無償化が実現するかというと壁は多い。高等教育の受益者は社会全体であるということにはまったく賛同するが、リスキリングなどと言って社会人が大学(大学院も含む)で学生として学ぶ機会も増えているわけで、個人が一切受益者たりえないという議論に説得力を持たせるのは厳しくなってきているようにも感じる(双方が受益者だという中教審部会の中間まとめは、理想論とは乖離しているのかもしれないが、現実的な表現だと筆者は捉えている)。

高等教育の費用を誰がどう負担するのか。個人にも一定の負担をさせるべきだという議論もあるかもしれない。しかし、個人の事情に応じて授業料の額を変える(いわゆる応能負担の一種)というのは、マスの数字の議論としては成り立つかもしれないが、機会均等であるべき高等教育という営みが個々の学生・受験生に対して行う実践として、どうやら看過できない欠点を抱えている。国公立大学と私立大学という形で負担に差をつけることで安価な高等教育へのアクセスの道を確保してきた経緯もあるが、それを未来永劫続けるかというとそれもどうだろうか。理念は示されていて、一方で制約もある。それを全部組み込んで、どこに落としどころを置くのか、あらためて根本的な制度設計をする必要のあるときが来ている。

学生が意思決定に参画する大学の姿

これも繰り返しだ。

いくつかの学部で自治会の再生に向けた動きが出ているらしく、それは歓迎すべきことだと思う。一方、学生と大学当局の利益が衝突することもあり、そのときに大学当局の方が強い立場に位置しがちというのも事実で、そこに労使関係とのアナロジーを見出すのも理解はできるのだが、そのモデルだけで大学の意思決定を捉えることはできないとも思っている(もっとも、そもそも大学の自治会を労働組合のアナロジーで捉えるのは、むしろ自治会と党派の結びつきが今より強かった旧世代のほうが持ちがちな認識かもしれない)。大学を知的共同体として性格づけるとき、学生も間違いなくその一員だからである。

念のために書いておけば、総長の言っている「過去の授業料改定も、在学生との交渉で決められたことではありませんでした」というのは現在の値上げのプロセスの何を正当化するのかいっさい不明な詭弁であるし、学生は「いまここに所属している学生のみなさんの声の大きさや数の多さ」でもって値上げの取り止めを主張しているわけではないはずである。

ただ、そうはいっても、自治会とは何で、大学のなかでどんな役割を果たすものなのか、ということを提示しなければならないのではないか、という問題意識を筆者は持っている。東京大学学生自治会中央委員会などという古めかしい言葉も聞こえてくるところで、一定の意味はあるとも思うが、それで事態が決定的な解決に向かうようにも感じられない。別に自治会でなくてもよいのだが、当局・執行部と構成員が非対称的な位置に置かれているという関係を脱却する新たなモデルを描かなければ、単に現在の構造の延長線上にしかいられまい。


(2024年9月10日追記)本投稿の公開2日後、東京大学当局は「全学の諸会議に諮る案」として、来年度2025年度から年次進行で授業料を値上げする案を、学内向けに提示した。9月中に決定との見通しを伝える報道も多数出ているほか、このタイミングからしても、付議されるのは9月の回と考えるのが自然なように思われる。

(2024年9月11日追記)東京大学ウェブサイトにも公開された。


この投稿は、筆者以外の著作物を引用している部分を除き、CC BY-NC-SA 4.0の下で利用できるものとします。なお、同ライセンスの認める範囲をこえて利用したい方は、個別に対応を考えますので、筆者までご相談ください。


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