文科省の審議会での国立大学の授業料そして大学のあり方についての議論動向
やはりこれのセンセーショナルな報道はかなりインパクトをもたらしたと思う。
「国立大の授業料を年間150万円に」慶応トップの提案に反発も…「公平な競争」に必要なことって?https://t.co/uwR5fS8uC9
— 東京新聞編集局 (@tokyonewsroom) April 24, 2024
東京新聞 TOKYO Web
切り取りをするのはあまり気分がよくないが、ここから話を始めないといけない。これは文部科学省に置かれている 中央教育審議会 大学分科会 高等教育の在り方に関する特別部会 の第4回で慶應義塾長の伊藤公平委員が行った発表(資料2-1「大学教育の多様化に向けて」)の話である。
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辿りにくいのでリンクを貼っておくが、この回の議事録も公開されている。
それで、しかし報道に躍らされるのではなく、その前後の経過を含めて追いかけることも必要だと思う。今日までの議事録だけでも3万字を優に超える(どころかおそらく4万字に達する)のだが、暇のある人はぜひ原文に目を通してもらえるといいと思っている。
なお、もう一つ7月には「国立大学法人等の機能強化に向けた検討会」というものも立ち上げられたが、こちらはまだ始まったばかりで議論の内容もまだこれから公開されるというところなので、本稿には含めないでおく。
「高等教育の在り方に関する特別部会」とは
中央教育審議会(中教審)とは何か一から説明していると長くなってしまうが、端的にいうと文科省の教育政策で大きな役割を果たしている有識者会議である。これは法律に基づく常設の会議だ。それ以外に、内閣府の総合科学技術・イノベーション会議 (CSTI) とか内閣の教育未来創造会議(「教育再生実行会議」の後継)なども大学政策・教育政策に大きな影響を及ぼしているが、国際卓越研究大学なんかでよく出てきた話なので、今回はその話は省略。
中教審は小学校から大学までの全体を扱うので、中で分科会に分かれていて、その一つが大学分科会である。そして大学分科会の中で特定のトピックを詳しく議論するのが部会である。この「高等教育の在り方に関する特別部会」は2023年11月29日が初回で、そこから2024年7月19日の第8回まで開催を重ねてきている(第8回は上位の大学分科会と合同開催)。
なぜこの部会を設置することになったか。それは直接には、2023年9月25日に文部科学大臣から中教審に向けて「急速な少子化が進行する中での将来社会を見据えた高等教育の在り方について(諮問)」という諮問が出されたのがきっかけである。しかしその前から大学分科会の中でこういう議論が必要だという話は出ていたようで、2023年5月17日(議事録)の資料3-1では、2023年度の審議事項として「急速な少子化の進行等を踏まえた今後の高等教育の在り方について」扱うことが提案されている。さらにその前の2022年度の審議の中で課題として浮かび上がってきた部分ということのようだ。
中教審は2018年に「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」という答申を出している。今回の部会の議論は、この通称「グランドデザイン答申」をアップデートするものになるはずで、だから視点としては2040年以降を見据えた長期的なものというのが基本的な枠組みである。
ちなみに、この部会の部会長は筑波大学学長の永田恭介氏だ。同氏は2015年3月から長きにわたって継続して中教審大学分科会の分科会長を務めているほか、国立大学協会会長や各種の有識者会議における委員や議長の職を多数務めており、高等教育政策における有識者として相当の存在感があると言ってよいだろう。議事録を読んでも、単に事務的な司会に徹するのではなく自らの考えを持って議論を率いていく手さばきの良さは、この手の議長に就けるには使い勝手のいい存在であろうという感想を抱く。なおその一方で、氏は2013年度から筑波大学の学長を務め続けており、再任にあたっての学長選考プロセスに対して学内から強い疑義・批判が上がっているという状況があることは付記しておかなければならない(そして、学外での多くの立場が学長という職に基礎を置いている側面も多分にあることを考えに入れれば、この歪みの一部はそこから来ていると診断しても間違ってはいないだろう)。
2024年8月の「中間まとめ」
さて現在の状況だが、7月19日の第8回部会を受けて、8月8日には「急速な少子化が進行する中での将来社会を見据えた高等教育の在り方について(中間まとめ)」というのが出されている。
ただこの中間まとめ、前提となる現状認識や考え方の方向性を整理するところまでで終わっていて、具体的な施策はまだ項目がリストアップされているだけで未完成という印象だ。もちろん「中間」まとめであるから具体的な施策の方はこれから議論していくということでよいのだが、そのことは頭の片隅に入れて読むとよい。
で、それはいいとして、ここまでで書かれている部分の内容に関しても、筆者としては正直に言って読みにくいという感想を持った。後半の内容が見えていない状況で前半だけを文書にまとめるのはそもそも無理があるし、部会ではかなり突っ込んだ議論が空中戦的に行われている印象もあるから、それを報告書として固めた文言にするのはかなり難しいだろう。そういう意味ではこれの下書きをした官僚には気の毒だと思うが、読みにくいものは読みにくいのだから仕方がない。
そんなわけで、以下、筆者なりに重要だと思う論点を整理してみることにしたい。
「中間まとめ」までの論点を整理してみる
まず出発点は人口減少とくに少子化である。現時点において、日本の大学入学者数は日本の18歳人口から直接的な影響を受ける構造になっているから、少子化はすなわち学生数の激減を意味する。その18歳人口は2005年には136万人だった†が、2023年には109万人†になっている。社人研中位推計(日本の政策立案で標準的に使われる人口推計)では、2035年には96万人、2040年には82万人と推計されている†。これまで18年間で20%減少し、これから17年間で25%減少する計算だ。2023年の大学進学率は57.7%†だそうだが(4年制大学だけの値で、高等教育進学率はもっと多くなることに注意)、単純計算で大学進学者数を同じ数に保とうとすると進学率は75%を超えることになり、とうてい現実的ではない。
そういうなかで“知の総和”なるものをいかに維持・向上するか、がこの中間まとめの中心的な問題意識である。そして、それにあたって政策的に着目する観点として「質」「規模」「アクセス」が挙げられている。数の問題と直接に関係するのはこのうち「規模」「アクセス」の部分であろう。しかし3つの観点は密接な関係を持っていて、学生が減って経営が悪化した大学では「質」を維持できなくなる。また、卑近な言い方かもしれないが、数を質で補うという側面もあるだろう。これらのバランスを意識することが必要ということになる。
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3つの観点のうち「アクセス」とは何か。中間まとめ本文では、ここでの「アクセス」とは「地理的又は社会経済的な観点からの高等教育の機会均等の実現を図ること」であるとされている。「地理的」というのは自分の住む地域に大学がなければ進学したくてもできないという話で、少子化とともに都市部への人口集中も進んでいるから、地方ではこれから深刻な問題となっていくことが予想されている。「社会経済的」というのが端的には授業料などが絡んでくる問題である。脚注では「家庭の世帯年収や保護者の学歴等により測定される子供の家庭背景」とされていて、単に金銭的なことだけが問題とされているわけではないので、「経済的」ではなく「社会経済的」という言い方になっているのであろう。
地理的な「アクセス」の観点
話がなかなか授業料に辿り着かないのだが、まず「アクセス」の問題について、地理的な側面から。大学の学生募集停止(有り体に言えば廃校)のニュースがぽつりぽつりと増えているが、18歳人口が減っても地域から大学がなくならないようにするにはどうすればいいかということである。また、単に大学と一括りに言っていてもダメで、分野ごと(学部ごと)で考えなければいけない部分もある。分かりやすい例をあげれば、ある地域から医学部がなくなれば、その地域全体の医療体制に大きな影響が出るだろう。あるいは、地方の高校生が大学進学を機に上京するなどというのはごく当たり前の話であり、地域内進学率というのも考慮すべき要素になってくるが、そのとき就職先があるかどうかというのは気になる問題で、地域の産業のことも一緒に取り上げていく必要が出てくる。そのようなわけで、高等教育の問題には地域として取り組む必要がある、という議論が登場する。各地域にある複数の大学が連携し、ときに役割分担する、という具合だ。ところで各地域にある複数の大学といっても、国立・公立・私立という異なる形態の大学があり、授業料も抱えている経営課題も異なっている。そういう大学の間で高度な連携を行うためには、ある程度ベースラインを揃える方向の施策が必要になってくる。これが、国公立と私立の間で授業料の水準が大きく離れていることに対する問題意識の背景にある文脈の一つだ。
「規模」の観点
ただし、この投稿でも発端にした伊藤公平氏の発言は、もっとナイーブなところから来ているように見える。それは「規模」の問題と関係している。規模の問題をつきつめると、一定数の大学が統合されたり廃止になったりするのもやむを得ないのではないか、という議論に行き着く。中間まとめでも「再編・統合の推進」に加え「縮小・撤退への支援」という踏み込んだ文言での記載がなされている。では、撤退しなければならないのは誰か。国立大学の財政問題はあくまで運営費交付金などの国からの予算の問題が主であるのに対して、収入に占める授業料の割合が高い私立大学では学生が集まらないことが経営問題に直結する。しかし学生を集めようとすると、私立大学は授業料が相対的に安い国立大学には絶対に勝てない、という構造がある。歴史的に高度経済成長期以来の人口増加と進学率上昇に対する受け皿を担ってきたのは私立大学なのに、人口減少・少子化の局面では私立大学を見捨てるのか。私立大学の立場からはこういう議論になるのである(ただし、とはいっても慶應義塾が経営難で潰れることは流石にあり得ないと思うが……)。
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「質」の観点
そして「質」の観点から、もちろん大学での教育の質を上げるためには一定の費用が必要である。冒頭のスライドをあらためて眺めると、伊藤委員は、公平な競争環境を通して質の向上を目指すと主張しているように読み取れる(新自由主義的な発想があるようにも見えるが……)。その質の中身であるが、学士・修士一体の5年コースというのを提案しており、これは中間まとめにも部分的に盛り込まれている。背景には就活で学部教育が形骸化しているという問題意識があり、また修士のレベルの人材をもっと世に送り出すというのは分かりやすい質の高度化である。そういえば、東京大学もCollege of Design(仮称)構想という学士・修士一環で5年間の課程を作ろうとしているところだった。そうやってドラスティックに新たな制度を考えていくときに、従来の国公私立の設置者別の役割分担・費用負担のあり方をそのまま残すのではやっていけない、という話の展開になっていく。
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ただ、「質」の問題を投入する資源(年数や金銭的なコスト)の問題に置き換えるのは、筆者個人としては賛同できない。学士・修士5年のプログラムというのは悪くない提案のようにも思えるが、どちらかというと量の問題に見える。金銭的なコストは確かに質と直結する問題だが、教学マネジメント(いわゆる3つのポリシーなど)や質保証を重視してきたこれまでの政策の路線から考えると、それだけで質を議論したことにはならない。2012年の「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~」、通称「質的転換答申」の時点で、次のように指摘されていた。
教育課程の体系化
大学、学部、学科の教育課程が全体としてどのような能力を育成し、どのような知識、技術、技能を修得させようとしているか、そのために個々の授業科目がどのように連携し関連し合うかが、あらかじめ明示されること。なお、大学としての学位授与の方針に対して授業科目数が過多であったり、科目の内容が過度に重なっている場合は、その精選の上に体系化が行われる必要がある。
組織的な教育の実施
体系的な教育課程に基づいて、教員間の連携と協力による組織的教育が行われること。往々にして大学の授業(授業科目)は個々の教員の責任に委ねられ、教員の専門性に引きつけた授業科目の設定が行われてきたが、学士課程教育の質的転換のためには、教員全体の主体的な参画による教育課程の体系化と並んで、授業内容やその実施に関わる教員の組織的な取組が必要である。
このように、学士課程教育を各教員の属人的な取組から大学が組織的に提供する体系立ったものへと進化させ、学生の能力をどう伸ばすかという学生本位の視点に立った学士課程教育へと質的な転換を図るためには、教員中心の授業科目の編成から学位プログラム中心の授業科目の編成への転換が必要である。
こういう論点をこの部会に持ってきたのは吉見俊哉氏である。
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文脈としては(やむを得ざるにして)授業料の値上げをするならば、それに相応した教育の質の向上は必要である、という話の流れだから、そこは伊藤委員の発言と似ている部分はある。そこはさておいても、ここで実は重要な示唆がなされているように筆者には思われる。それはつまり、体系的なカリキュラムのもとに学生の能力を育成するプログラムという目指すべき教育のあり方は、大学教員の研究者としての専門性を基礎に組み上げられる教育とはずいぶん異なる姿であるということだ。大学には金がない、それはいい。だが、授業料を上げるにしても、授業料を上げた分を研究者が自分の研究のために使うというのでは平仄が取れていない。研究時間の減少とか研究者のキャリアパスとか研究にまつわる課題もいろいろとあって、大学財政の問題にしても一緒くたに扱われている感がないでもない。修士課程・博士課程と教育の射程を大学院まで広げていくなら繋がりも出てくるのだが、授業料のことを考えるのであればまずは教育の問題が俎上にあげられるべきではなかろうか、と筆者は思う。このあたりのことは、後の回で少し発言がないことはないのだが、やや宙に浮いてしまっているような印象も覚える。
中教審の議論の中で、いつも我々は研究と教育の両輪という言い方をしてきました。したがって、大学の教員は研究者をしてきているわけですし、大学の教員は、やはりきちんと研究を背景にしていなければならないわけですけれども、しかし、個々の大学で見た場合に、研究中心的な大学であるということと、やはり教育中心的な大学というのは、事実上分かれてきているだろうと思います。
その場合に、要するに、研究と教育というのをどういうふうにするか。具体的には、研究者である教員の研究をどうやって保障するのか。それも個々の大学の中に大学院を持っているところもあるし、持っていないところもあるので、そのことも含めて、制度の中でどういうふうに配置していくのかということを考える必要があるのではないかと思いますということです。
高等教育の費用負担のあり方
ここまで、あえて「アクセス」のうち社会経済的な側面について正面から触れていなかった。その理由は、中間まとめでもほとんど方向性が見えていないからというのが大きい。章を分けて「高等教育改革を支える支援方策の在り方」という大見出しは立っているのだが、中身はこれからの議論に向けての宿題リストといったところだ。議論の観点として仮に挙げられているのは以下の3つである。
機関補助と個人支援のそれぞれの特徴を踏まえた公財政支援の在り方や、基盤的経費助成と競争的資源配分による支援の在り方
高等教育の社会的・私的便益を踏まえた授業料等を含む個人・保護者負担の在り方
企業等からの寄附金や社会からの投資の拡大など多様な資金調達を通じた経営基盤の確立・強化の方策
1が公的負担の話で、その中身として、各教育機関への経費支弁の形を取るか学生個人への奨学金などの形を取るか、あるいは運営経費として一律に配分するのか競争的資金として配分するのか、といった問題だ。2が個人・保護者でつまり家計負担のことである。3はそれ以外で、社会全体で幅広く大学を財政的に(も)支えようという考え方である。問題はこれらをどのような考え方のもとにどう組み合わせていくかで、そこはまだ何も書き込まれていない。
その中で(国立大学の)授業料値上げは家計負担の拡大ということになるが、積極的推進論と消極的容認論が混在しているというのが筆者の見立てだ。積極的推進論者の第一がもちろん伊藤委員である。吉見委員などはどちらかといえば消極的容認なのではないかと見える。
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高等教育の受益者は誰か
一つ言えることとして、高等教育の受益者は誰かというよくある議論があるのだが、それについては次のようにはっきりと書かれている。
高等教育の受益者は学生本人であると同時に、我が国の将来の社会、経済、文化の発展を支える人材育成という観点からは、社会全体が受益者である。
これは永田部会長の意見が反映された部分が大きいように見受けられる。せっかくなので議事録をどんどん抜き書きしていくのだが、永田部会長の意見というのは次の発言である。
要するに、今の意見というのは、我が国の高等教育を支えるのは誰で、それから、受益者は誰かということをもう一回考えるとはっきりするのだと思うのです。学生個人は、当然ながら、才能を発掘して伸ばして、受益者の一部になるだろうと思います。〔中略〕
ですから、堂々と学生という受益者にもっと払ってもらってもいい可能性もあるし、堂々と財務当局からは厳しいと言われても、国に要求すべきものは要求しなければいけません。文科省の方々は、やはり厳しいところがあるのはもちろん存じ上げていますが、ここでひるんでしまったら、将来像ではなくて、概算要求のようになってしまうので、それでは駄目だと思うのです。将来像なので、10年かけてもこれをやらなければいけないということだと思います。
私自身だけ表明しておくと、受益者は学生本人であり、国であるというふうに思っています。ですから、そこは応分しなくてはいけなくて、バランスが幾らかという議論は当然必要だと思うのです。
あくまで筆者が恣意的に抜き書きしているので、読者は必要に応じて原典に当たられるようにされたい。
高等教育の適正な費用水準という観点
質向上のためにもっと収入が必要だということを出発点にした議論も見受けられる。その場合には次に授業料なのか政府支出なのかという問題が出てくるわけだが、仮に現在の授業料水準をそのまま政府支出に転換したとして、そうするとその政府支出の額が増えていくという将来はちょっと想像できない。
伊藤委員
最初に永田部会長が、どういうことを具体的なことを議論したいということだったので、私から具体的なことのところに絞って言うと、授業料の値上げは不可欠だと私は考えています。
例えば慶応の一つの例を取っても、大学は例えば2000年の授業料が平均すると90万円、今、140万円ぐらいです。これは毎年1.9%値上げをしてきたというのが実績であります。国立大学は49万円ちょっとだったのが今55万円弱ですから、これはほとんど上がっていない。
なぜ慶應義塾はそういうふうに値上げをしてこなければいけなかったかというと、国から1人につき大体、私大助成という形で20万円ぐらい頂けるんですけども、ですから140万円足す20万円で160万円の1人の収入でやっていくというのは、それでももう限界なんですね、よい大学をつくるためには。国立は恐らく55万円に対して230万円ぐらい、平均ですね、86大学。280万円ぐらい1人につき収入があるんですけども、これは適正な収入だと私は思います。これは絶対切るべきじゃない。それぐらい絶対必要で、もっと必要かもしれないということですね。
ですから、そこのところが、国立は55万円、我々が140万円てやっていく中で、もう少し国立がやはり上げていってくれないと、あるスペクトラムの私大は、それ以上どうしても上げられないような形になっていくので、その中で、よい意味での競争が出てくるというのが私の考えているところで、それを多分、吉見さんも言ってくださったんだと思います。
それをやっていかないと本当にもう経済的に我々、新しいことをやろうと思っても、今までの継続しかできないので、限界になっているんですね。ですから、国立大学もぜひ上げて、その代わりに、苦学生に対しては奨学金を用意するというような、当たり前のことをやっていってほしいというのが1つです。
〔中略〕
永田部会長
ありがとうございます。最初に量のところで、あとは質のお話で、両方の御意見だったと思います。
授業料を上げるということについては、もちろんおっしゃるとおりです。ただ、今度は財政的に考えたときに、無償化という世論が立ち上がったときに、国が行えるのかという問題に今度はなるわけです。私は上がった後に無償化になるとウエルカムですが。
伊藤委員
そうですね。私もそう思います。
永田部会長
学費を150万円まで上げておいてから無償化すれば、その無償化分は大学に配当されます。今、大阪で無償化を行おうとしていて、大問題が起こり始めているわけです。
第1回の時点で伊藤氏は国立大学の授業料値上げという議論を吹っかけているが、それに対する永田部会長の応答は、逆に無償化を睨んだものになっている。「学費を150万円まで上げておいてから無償化すれば」というのは、その高い学費を払わなければならない期間の学生のことを考えるとナイーブな意味ではとても賛同できないが、無償化するにしても先に相応の水準の額が“見える化”された上でそれを政府が負担するという建て付けにしなければ大学の貧乏が固定化されてしまう、と言っているように見える。同じ趣旨だと思うが、永田氏は親会の大学分科会でこういう発言もしている。
いや、よく分かります。私は、授業料に関しては安過ぎるだろうという気がしますが、一方で無償化という方向も逆にあります。無償化の分は政府が出すというか、財務省のお財布が開かないと出ませんが、そこから出てくるわけです。
そのような仕組みがあることを知っておいて、どう口をうまく開いてもらえるかというのは、国民の個々の家庭のお財布を開くのと、財務省のお財布を開くのとの問題なので、言葉が違って、とても違うように見えますが、実は似ております。財務省の口を大きく開けないと授業料が上がりません、つまり人件費が入ってこないということなので、事はそんなに簡単ではないと思います。
これをぜひとも、価値のほうから先に理由づけをしていかないといけません。先ほど教育はディスカウントしないでほしいと申し上げました。それだけの知恵と知識が詰まったものを教えているはずなので、そんなに安上がりにできていいものではないだろうと思っています。これを先に確立しないといけません。
〔中略〕
ですから、これはいろいろと出てくるのですが、誰が払うかは置いておいて、日本は教育にかける単価は安過ぎます。これは事実だと思います。誰が払うかという問題はあります。国立大学の財務諸表を見ていると、1人当たり百二、三十万かかっているのですが、授業料は50万ですから、何かおかしいという感じはします。
その「誰が払うかという問題」が大問題なわけだが、中間まとめの時点では宿題として積まれている状態で、議論をする予定はあるはずということだから、これ以上ここで追及しても仕方がない。
社会経済的なアクセスについて
もちろん、授業料値上げは社会経済的なアクセス(高等教育の機会均等)の確保を妨げる。ここまでに引用した部分でも見え隠れしているが、そのこと自体は当然認識されている。ではそれに対する処方箋は何かというと、伊藤委員は奨学金ということを述べる。
だったら、各国立大学としてどういう工夫が、可能性としてできるかといったときに、国立大学としては、取れる学生からは学費をしっかり取り、でも、取れない学生、先ほども何度もありましたし、非課税世帯はもとより、例えば650万円ぐらいの収入であったって、取れない学生であれば、それはしっかりとした奨学金を充てて、それの結果として国立大学も公立大学も収入が増えるような形になっていき、質が向上する。その上で、でも、そこで値上げをしてくれないと、私立大学が同じような競争ができないということになるわけですね。誰が退場していくかという話になるわけです。だから、そこで公平な場をつくり、ある意味、工夫に基づく競争原理も出てくる必要があるだろうということになるわけです。
しかしながら、奨学金があればそれでいいのかというと、今般の東京大学での議論でさんざん語られているように、けっしてそういうわけではない。部会の議論では、日本学生支援機構の理事長である吉岡知哉委員が次のように述べている。
もう1点、値上げが必要だということは、私も大学の執行部にいたわけですから、本当にそう思います。多分1人から学費って200万とか300万とか取らなければ革新的な授業もできませんし、教員の数も増やせない、フィールドワークとか留学もさせられないということになると思いますが、それはやっぱり一方で機会均等をどうするかという話になりまして、その分を、例えば奨学金でカバーするというのは、ますます制度をゆがめるのではないかと思います。しかも奨学金の制度自体が崩れていってしまうというふうに。
ただ、そこから具体的な話が進んでいるかというと、どうもそのようには見えない。中間まとめには社会経済的なアクセスに関する部分の具体的方策として「入学前からの取組促進」が挙げられていて、例としては「経済的負担軽減に関する早期からの幅広い情報提供の促進」などとなっているが、あまり本質的な施策であるとは筆者には思われない。これも中間まとめの時点では宿題ということなのだろうか。
補遺:日本私立大学連盟の提言
日本私立大学連盟が8月8日、「新たな公財政支援のあり方について」という提言を発表している。
ちなみに、偶然なのかどうかは知らないが、8月8日というのはここまでさんざん話をしてきた中教審部会の中間まとめが発表されたのと同じ日である。ついでに書いておくと、日本私立大学連盟の副会長の一人である曄道佳明氏(上智大学学長)は大学分科会の委員であり、私大連の側ではこの提言を作った「将来の高等教育のあり方と公財政支援を考えるプロジェクト」の担当理事(委員長)でもある。それから私大連の常務理事の一人は伊藤公平氏で、氏もプロジェクトの委員だ。
それはさておき中身だが、大きな方向性の流れとしては中教審部会からそれほど離れていないように見える。国立大学と私立大学の授業料の差を(国立大学の授業料を値上げする形で)埋めるという点は私立大学の立場が強く出ている。ただ、それ以上にこの提言のポイントとなるのは、公的支出をいくら増やしてそれをどう配分するか具体的な額を示していることだろう。
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詳しくは提言の原文を読んでもらえればよいが、要するに、私立大学に対しては公的支出を増やして質を上げ、国立大学は授業料収入を増やして質を上げ、学生に対しては(100万円の水準の授業料に見合うように)奨学金を増やして社会経済的アクセスを確保し、それに必要な2兆円を国家予算に要求するということである。特に奨学金は、世帯年収900万円以下に100万円の給付をすると言っている。
中教審の部会でも人口が何万人というマスの数字の議論が飛び交っている。それは避けて通れない話ではあるのだが、しかし個人的な体感としてはどうもそれだけでは足りないような印象が拭えない。「授業料減免」「給付型奨学金」の数文字では語れないことがあるのではないか。このギャップを埋めて納得できる解に辿り着くにはどんな知恵が必要なんだろうか。
この投稿は、筆者以外の著作物を引用している部分を除き、CC BY-NC-SA 4.0の下で利用できるものとします。なお、同ライセンスの認める範囲をこえて利用したい方は、個別に対応を考えますので、筆者までご相談ください。