【東大授業料値上げ開示請求・その3】大学の意思決定のあり方と情報公開制度に関する論考
今度こそ開示請求の結果がそろそろ届くはずだが、その前に論考をひとつ。
あ、ちなみに初回は「【東大授業料値上げ開示請求・その1】行った開示請求の内容を解説します」、前回は「【東大授業料値上げ開示請求・その2】決定期限が延長されました」でした。
前置き:国立大学法人における情報公開制度の位置付け
開示請求の仕組みを定めている情報公開制度は、法律によって国の行政機構に対して一律に設けられているものである。厳密には、対象とする組織によって行政機関の保有する情報の公開に関する法律(行政機関情報公開法)と独立行政法人等の保有する情報の公開に関する法律(独立行政法人等情報公開法)の2つの法律に分かれており、国立大学法人の場合は後者の「独立行政法人等」の方が適用される。読んで字の如く、独立行政法人の仲間というわけだ。
さてここで、国立大学の法人化が、行政改革の流れの中で先行する独立行政法人制度を参照しながら行われたこと、そしてそれが国立大学にとって芳しくない結果を招いた側面を持つことは、前に述べた通りである(国立大学の運営費交付金制度とその変遷)。それはもっと広く見れば、大学が短期的・近視眼的政策からの独立を保つことに意義を見出す立場(下のnote投稿参照)によって批判されるものである。
さらに、このnote投稿でも記したように、大学には構成員による意思決定への参画という理念がある(全構成員自治)。その理念の内実にはさまざまな度合いがあるが、少なくとも学生という構成員が存在することは、通常の行政機構とは異なる大学の大きな特徴と言うべきである。ここに、独立行政法人という行政機構に対するものと同じ法律によって国立大学法人の情報公開制度を扱うことがどこまで妥当なのかという問題が生じる。
大学の社会に対する責務
念のために述べておくと、国立大学には情報公開制度が不要と言っているわけではない。筆者は、大学は社会の一員であり、しかも公費の投入を受けながら教育研究という公共的な役割を担う存在である以上、それ相応の責務が課せられる、と繰り返し述べている。それは国家(政府)ではなく社会に対する責務である。したがって、国立大学を独立行政法人と同一視することはできないけれども、その諸活動を国民に説明する責務(独立行政法人等情報公開法第1条)があることには変わりがない。
それにそもそも、仮に国立大学が法人化されなかったとしても、その場合には国立大学には国の機関だから、行政機関情報公開法が適用される(実際に2001年の施行から2004年の法人化までの3年間は適用されていた)。情報公開制度の枠組みから外れるわけではなく、ことは法人化の問題ではない。
そのようなわけで、情報公開・開示請求制度が適用されることそれ自体は問題ではなく、まったく妥当な話である。東京大学が自ら定めた東京大学憲章においても、第18条後段で「東京大学は、自らの保有する情報を積極的に公開」することを謳っている。東京大学憲章が制定されたときには情報公開制度は既にあったから、ここでの情報公開は開示請求も含んで考えられていると見ていいだろう。
構成員に対する情報の流通はどうあるべきか
ここからが本題である。もっと深刻な、そして本稿の中心的な問いは、次のようなものである。
学生の意見表明や構成員による意思決定という理念を実践しようとするとき、当局・執行部の持つ情報を法定の開示請求という枠組みによって公開させることは、手段として相応しいのか?大学と社会の関係(一般には政府と社会の関係)を想定しているはずの情報公開制度が、当局と構成員の間という学内の関係に現れるのは、果たして健全な状態なのか?
警察力の導入という問題から導かれる論点
少し回り道をしよう。東大確認書は、“学内「紛争」解決の手段として警察力を導入しない”という原則を掲げた。その基礎には大学が特定の政治的勢力からの独立を保つという考え方を見出すことができ、具体的には戦前に特高警察が社会主義・共産主義の取り締まりを行った歴史が(間接的かもしれないが)影を落としている。
加えて、構成員の参画による意思決定という原則からも検討すべき点がある。警察力は実力を伴う国家権力の代表であるが、それだけではなく、裁判すなわち司法権力を学内の問題において発動することについても慎重な考え方を取る立場がある。このツイート以下でも述べたのだが、あらためてまとめると、次のようになる。構成員による意思決定の理念が歴史的に確認されてきたことや、慣行として実践されてきたことは事実としても、その具体的な仕組みが学内規則などの制度的な形で構築されるには至っていない。一方で裁判はあくまで法令・規則など制度に基づいて法的関係に決着をつけるものである。したがって裁判においては、日本国憲法との関連で理念としての学問の自由や大学の自治に触れられることはあっても、実質的判断においては法的論理のもとに結論が出されるしかないのであって、それはすなわち大学当局の側の主張が認められるという結果を意味する。そうすると結局のところ、全構成員自治の理念も大学の政治的勢力や政策的関与からの独立という理念も毀損する結果をもたらしかねない(“警察力の導入”についても同じことは言える。今回の件の翌日のツイート参照)。もっともこの話題を取り上げるならば、東京大学では駒場寮廃寮の際に民事執行が行われたのであり(これにはいろいろと議論がつきまとうはずであるが)、既に切り崩された過去があることも述べておかねばならない。
以上のことを粗く言えば、学内の問題にはまず学内の論理によって対応すべきであって、学外の論理を安易に導入することの是非は問われなければならない、ということになろう。情報公開制度による開示請求もあくまで大学と社会(学外)の関係で捉えるべきものであって、ほんらい学内の問題に関しては学内の論理に沿った情報流通の仕組みが存在して然るべきである。したがって、開示請求を利用することの妥当性をこの観点から検討しておく必要があるということになる。
現下の情勢における開示請求の利用の是非
実際のところ、筆者は現時点で東京大学の学生でも教職員でもないので、個人の属性として学内か学外かで言えば学外の方になる。しかしこれまで筆者がしたためてきた投稿は学内の立場に準じた視点を取っていたから、やはりこの議論から逃れることはできないであろう。
そこで東京大学が置かれている現状はどうか。東京大学教養学部学生自治会は2024年6月23日の「警察力導入に対する抗議声明」(理事会文書第434号)で、「私たち学生は、もはや大学本部を信用することができません。」とまで宣告した。異常な事態が現出している。学生と当局・執行部の間で構成員として互いに正常かつ十分な意思疎通や情報流通を図ることもままならない状況となっており、意思決定への参画など望むべくもない。
このことを踏まえて、筆者の今日のところの結論はこうである。現行の情報公開制度による開示請求を行うことは、構成員の参画による意思決定という観点からは理論的に妥当と言い切れない面があるが、現下の情勢のもと事態の打開のため緊急避難的に行うことまで否定されるというのは行き過ぎた結論ではないか。国立大学法人は当局・執行部だけで構成されているわけではないが、当座、当局・執行部において「その諸活動を国民に説明する責務が全うされ」ていない状況は看過できず、学内の立場からとしても、当局・執行部の持つ情報を公開させるために開示請求を利用することは、残念ではあるけれどもやむを得ない措置と考えたい。
あるべき大学の意思決定と情報公開の姿に向けて
以上で(パッとしない)弁明は済んだのであるが、稿を閉じる前に提示しておきたい論点が残っている。
まず、本稿で問うてきた問題の中心には、次のような前提がある。すなわち、それぞれの構成員が学内の情報を知ることができなければ意思決定への参画を真に実現することはできず、そのための基盤として、学内の論理に沿った情報流通の仕組みが存在して然るべきである、ということである。では、その情報流通の仕組みとはどのようなものなのか。
もう一つ、前置きで発しておいた「独立行政法人という行政機構に対するものと同じ法律によって国立大学法人の情報公開制度を扱うことがどこまで妥当なのか」という問いに戻る。この問いの出発点は、社会に対する情報公開の手続きと内部の意思決定のあり方とが密接に関連しているということにある。情報公開制度が開示請求の対象とするのは行政文書(独立行政法人等の場合は法人文書)だが、その行政文書に対するもう一つの重要な規律が公文書等の管理に関する法律(公文書管理法)による公文書管理制度であり、そこでは「当該行政機関における経緯も含めた意思決定に至る過程並びに当該行政機関の事務及び事業の実績を合理的に跡付け、又は検証することができるよう」に文書を作成しなければならないとされている(第4条)。つまり、組織内部での意思決定過程を外部に公開するのが情報公開制度の機能の一つということになる。
ここで、行政機構において意思決定を担うのは、国民全体の奉仕者たる公務員(日本国憲法第15条第2項)である(独立行政法人の職員は公務員ではないが、基本的にいわゆるみなし公務員ではあるし、少なくとも行政に従事することを職務として雇用されている)。一方で学生は基本的に学ぶために大学に所属しているのであって、意思決定への参画はその所属関係と大学の性質からもたらされる副次的な行動にすぎない。そうすると、大学自体が組織として社会に対して自らの活動を説明する責務を有するとしても、公務員とは異なって学生個々人に課せられる責務は限られてくるはずである、という議論ができる。そのとき、どのような形で外部に意思決定の過程を公開するのかという問題について、大学固有のあり方を見出さなければならないことになる(実際に国立大学法人に特化した法律が必要かどうかは別として)。
このことを一般化させると、構成員による意思決定への参画がなされるとき、構成員が共同体として社会に対する責務を果たす必要が生起してくる、と言えるはずである。そしてそうである以上、大学の意思決定のあり方の将来を構想することは、意思決定に参画する構成員の共同体のあり方を設計するということにほかならない。先に述べた情報流通の仕組みも、そのような共同体におけるシステムの一環として位置付けられるものとなるはずである。単に学生が意見を表明してそれが反映されればよいということにはとどまらず、かような大学という共同体の一員として学生がどのような位置を占めるのか、真剣に考えなければならないだろう。
(2024年9月3日追記)決定通知書が届いたので、次回「その4」を公開しました。
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