高校時代 野球編
おはようございます(^▽^)/
本日も過去から大事なものを見つけようプロジェクト第7弾ということで今回は高校野球編をお送りしたいと思います。
本日も最後まで読んで頂けると嬉しいです。
私は、高校に野球をするために入学しました。
そして、甲子園という舞台だけを目指さして日々努力を重ねました。
しかし、初めて練習に行った時には、分からないけどめちゃめちゃ怖そうな人が入り口に立っていて普通に「おはようございます」と適切な声で言ったら「待て」と言われ「声がちっさい」と言われたのです。最初は「こいつマジで難聴なんじゃないん?」思いました。
それからのことどれだけ距離が近くても、遠くても声のボリュームは一緒でした。
なので一年生の前期が終わった頃にはその場に応じた声の大きさがどれかなんて分からなくなっていました。
私は、今でも無知な上級生がこれまでの伝統を引き継いだだけだと思っていますけど(笑)
そんな感じで高校野球生活が始まったわけですけども、正直最初上級生のフリーバッティング見た時には本当に来るところ間違えたと思いました。
それだけ、えぐかったです。
私はサードというポジションを守っていたのですが野球やっている人なら分かると思うんですけどめちゃめちゃ速い打球が飛んでくるポジションなんですね。
そこに加えて三年のえげつない打球が飛んでくるので、もうどう守らないようにしようか必死でした。
例えば、三塁線を抜けて別に自分が取りに行かなくてもレフトが取りに行ってくれるのに「ごめん、ボール取ってくるから先行ってて」といって時間稼ぎをするのが日課でした。
しかし、みんな取りたくなかったので「あれ俺が行ってくるわ」ということもよく言い合うようになってましたけど。
困難な事から逃げちゃダメだろと松岡修三さんに怒られそうですがあれは松岡さんでも逃げます。なぜならあのフリーバッティングの守備は死を連想させるからです(笑)
まだまだすごいインパクトの強い思いでは沢山あるのですが、書ききれなさそうなのでこの辺までにしときます。
ここから、高校野球でのターニングポイントが2つありましたのでそれを紹介いていきたいを思います。
1つ目は、足を捻挫した時です。
私は、高校2年の春に足首の靭帯部分断裂をしました。
この冬は、1個上のレギュラーの先輩と一緒に練習をやらせて頂いていたので絶対に恩返ししたいと思っていた時にけがをしてしまったので非常に悔しい思いでいっぱいでした。
その間サポートする側に回って2か月くらいでやっと復帰することができました。
しかし、練習を開始して1か月間くらいは、どんだけ打てなくてもどんだけ守れなくても野球がめちゃめちゃ楽しかったんです。
だから、自然に声も出てこれまでの野球人生の中で感じたことのないような感覚でした。
それから、私は声出しキャラになったのです。最初は本当に頑張って声を出しているという感じはなくて、自然と出していたのですが次第に「武政今日声ちっさくねかった?」なんて言われるようになり声を出すことに義務感を覚え始めそこからはきつかったですけど。
これがわたしが声出しキャラに定着したという転機です。
2つ目は総合マネージャになったことです。
私は、野球は全然うまい方ではなかったですが、人を励ますことには自信がありました。
だから、二年生の夏くらいからは家に帰ってバットを振るよりも偉人の名言とかばかり読んでました。(笑)
あの時の私はもう野球選手ではなく本当に歩くスピーカーだったな思っています。
しかし、みんなを励ますのには自信がありましたが人をまとめるということにはまったく自信がありませんでした。
だから、本当に不安しかなった私に勇気を与えてくださったのが小出大輔という男だったのです。この方は、総合マネージャーとしての私だけではなく私の人生にまで影響を与えて下さった方なのですがこの話は次回やります。
その方の助言もあり、かなりチームにも迷惑をかけましたが何とか乗る超える事ができました。
ここが私の二つ目の転機でした。
高校野球で得たものは、もちろん野球の技術もそうですが、みんなと汗水垂らして努力した思い出というものだと思います。
これは、お金では変えることのできないものであり、自分の時間という命で買った最高の買い物だった思います。
だから、もっとがむしゃらに生きて時間という命でもっといい思い出という買い物をしたいなと思っています!!
今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。
次回、私の人生に対する考え方を変えてくれた小出大輔という男を紹介したいと思います。