優しさは、空から降りてこない
スマートフォンの画面を上下にスクロールする。SNSのタイムラインには、成功者たちの「思いやり」の言葉が流れていく。名門大学を卒業し、華々しいキャリアを築きながら、「社会の分断」を説き、「異なる階層の人々の気持ちが理解できる」と語る彼らの言葉。でも、どこか違和感が残る。
リモートワークの部屋から見える街並みは、決して華やかではない。でも、実直に生きる人々の姿がある。コンビニで働く学生、深夜まで営業するラーメン屋の店主、早朝から動き出す工事現場の作業員。彼らの存在は、決して「理解されるべき対象」ではない。
私は時々思い出す。工場の町で過ごした少年時代を。職人気質の大人たちは、学歴や肩書きなど気にしなかった。「今日も仕事か……」とため息をつきながらも、毎日工場に向かっていった背中たち。「辛いけど行くしかねぇべや」。父の声は、今でも耳の奥に残っている。
画面の向こうで、エリートたちは「多様性」を説く。でも、その言葉の裏には、少しだけ、無意識の余裕が見え隠れする。「私たちには分かる」という微かな自負。彼らは「理解」を語るけれど、毎日の生活の重みを本当に知っているのだろうか。
コードを書きながら、ふと考える。テクノロジーの進歩は、確かに世界を変えていく。でも、大切なのは、日々の暮らしの中で、その時々を受け入れながら、自分なりに生きていくこと。辛いときもあれば、思わず笑顔がこぼれる瞬間もある。
オンラインミーティングで、新しいプロジェクトの方向性を議論する。画面の中で、東京のオフィスにいる同僚たちが熱く語る。
夜、仕事を終えてコードを上げる。プルリクエストには、様々な背景を持つエンジニアたちのコメントが付く。
そこには、学歴も、経歴も関係ない。ただ、問題を解決する力だけが問われる。それが、テクノロジーの世界の美しさでもある。
スマートフォンの通知が鳴る。また誰かが、社会の分断について語っている。でも、本当の分断は、「理解したつもりになること」から始まるのかもしれない。
優しさに、上からの目線は似合わない。
優しさは、空から降りてこない。
夜の街角で、蛍光灯の明かりだけが降り注ぐコンビニの窓。
レジの向こうと交わされる「ありがとうございます」という言葉には、どこか懐かしい温もりがある。
SNSの画面では誰かが高尚な社会論を説いているけれど、この窓の外では、今日も昨日となにも変わらず、星が町を静かに照らしている。