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小桜韋威鎧 兜、大袖付(楯無)のこと

8月7日、国宝「小桜韋威鎧 兜、大袖付」(通称楯無)が菅田天神社にて公開されましたので、拝観してきました。拙著『虎の牙』でも「楯無の首を獲りてこよ」とのキーワードで、主人公アケヨを翻弄する楯無の鎧。学芸員さんの解説を以下に書き起こします。


平安~鎌倉期に制作された鎧と考えられています。

甲斐源氏の始祖である新羅三郎義光以後、武田信光が甲斐に入りましたが、最初は武田嫡流が相伝したのではなく、武田家傍流である一条家(のちに武田信玄息の一条信龍が養子に入る家です)が相伝したそうです。南北朝時代、安芸守護・武田信武(武田10代当主)のころ、相伝する家が嫡流に移ったそうです。(そのころ、楯無の神格化が強まったのでは、と筆者は考えます)

普通の大鎧と違うところは、信仰の対象となったところ。

戦国時代の永禄9・10年に信濃国の生島足島神社に奉納された起請文では、「武田家に忠義を誓う」と記された末尾に誓う先の神仏の名がずらりと書かれ、楯無の名もあるのです。つまり、神仏と同格と見られていたとのこと。

その楯無は戦国時代、甲斐の北東の鬼門にあたる菅田天神社に納められていた、という記録がのこるほか、甲府の武田氏館に「御旗屋」という建物があり、そこにもう一つの武田家家宝・御旗とともに納められていた可能性もあるとのこと。現時点ではどちらともはっきりしないそうです。


楯無は江戸自体にふたたび菅田天神社に戻りますが、一度盗難に遭ってしまい、金箔の金具などは紛失してしまったとのこと。寛政3~4年ごろ大規模な修復をされます。その結果、元の形とはすこし変わってしまいました。いま菅田天神社に納められている大鎧には、脇の部分をまもる栴檀や鳩尾の板がないほか、胴の絵韋の意匠も異なっています。この絵韋は江戸時代のものであるそうです。胴の裏側に鎌倉時代当時のものと思われる絵韋が残っており、復元の際はそれを参考にしたそうです。

また、兜の前立てをつける位置も異なっています。いまは兜の吹き返しの中央に家紋の金具がつけられていますが、鎌倉時代の意匠では、吹き返しの上部外側につけられていたであろうこと。

これらを勘案して、復元されたものが県立博物館に展示されていますが、そちらは作られた鎌倉時代当初の姿を復元することを目指し、作られたものであるそうです。下記のブログに菅田天神社の楯無と、県立博物館のレプリカが併載されています。

平安~鎌倉時代の様式の大鎧であるため、造りも当時のものです。鎌倉時代は弓を引くことが多かったわけですが、そうすると体の左側面を敵側に向けることになります。左の脇板の防御が厚いそうです。鎧の大部分は革札ですが、左脇、胸、頭に近い部分などは鉄札が使われているとのこと。また鹿の革と思われていた小桜韋は、黄檗で染めた「黄がえし」という手法が用いられたものだとわかりました。県立博物館の復元鎧の草摺はそのため、とても黄色い印象がありますね。


実際庫裡のなかに納められた鎧は、小さいなあという印象でしたが、あまたの人々が信奉し、特別な思いで相対したのかと思うと、ただの大鎧を超えたものであるように感じられました。永く伝えられて欲しいと願います。

以上、雑ぱくですが、まとめてみました。間違いなどがありましたら、教えて頂けると嬉しいです。

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