喧嘩の仲裁に入った時の話
先日打ち合わせに向かう為に店を閉めてから椎名町に向かって自転車を走らせていたら、女性同士の喧嘩の場に遭遇した。歳の頃40代~50代位の女性と10代の女性が、どうやら不注意で衝突して、やれどっちが悪いという事を怒鳴り合っていた。
僕は反射的に自転車を両者の間に挿し込んでしまった為仲裁をする羽目になった。
若い子の方が歩きスマホをしていたというのが原因の一端のようだったが、対面でぶつかったとしたらもう一方も不注意である訳で、その水掛け論が延々と続いていて次第に声も大きくなっていったという感じみたいだった。
結果として何とか仲裁というか、その場を終わらせることには成功したのだが、それがなかなか示唆に富んだ経験だったので経緯を含め書いてみようと思い立ったのがこのテクストの目的である。
喧嘩の仲裁なんか記憶がある限り余りした事ない僕はとにかくその諍いの原因を探る事から始めるしかなく、怒鳴り合う二人それぞれの主張を聞くことにまずは専念せざるを得なかった。
10代の女性はとにかくキレてしまっていて差別用語とも取れるような言葉(妙齢の女性をののしる言葉や、それ以上とも言える言葉)を繰り返していた。僕はその発言は良くないと思ったので言う度に「その言い方は良くない」と諫めた。
一方でもう一人の女性は年上である事を誇示するように「年上に向かって言う言葉ではない」という方向性の戦い方をしていた。
少し収まってきたかと思うと蒸し返すのは年上の方で、それによってまた若い方が汚い言葉で罵る、それを僕が諫めるという構図が延々と続いたのだった。
そこで僕が提案したのは大体こんな感じ。
「警察呼びましょう。でも警察呼んだところでこのやりとりを続けるだけでしょ?言い争い続けていても何にも良い事はないし、そもそも二度と会わないかもしれない人同士なのだから、お互い逆方向を向いて歩きだしませんか」
この提案は年上の方にまずは受け入れられ納得したような感じだった。
しかしいざ行動に移さんとする際にその女性が捨て台詞のような事を投げかけるのでまた怒鳴り合いが始まる。終わりかけていたのに…。
そんな訳で何度か僕の提案を説明して(時間にして20分くらい!?)、年上の方を帰すことに成功!
若い子の方は最後まで睨んでいたけど、女性が離れていくに従って怒りによる緊張の糸が解れたのか泣き出してしまった。僕は自分の経験を交えながら、「人生生きていると嫌な事もあるからね」という感じで慰めた。彼女は泣きながら「ありがとうございました」と言って去って行った。
以上が大まかな経緯である。
この仲裁が上手くいった理由を後日考えてみた。
僕の咄嗟な対応で良かったのは、どちらの味方にもならずジャッジをしなかった事だと思う。仲裁に入る時に双方の言い分をジャッジしてどちらが正しいかをもし判断してしまったら、「年上なんだから引くべきだ」とか「若いんだから年上のいう事を聞け」のような規範的な立場を取ってしまったら、おそらく上手くいかなかったかもしれない。
言い分なんてそれぞれが正しいと思っているから言うのだ。
そして大きな要素として僕がお互いをまったく知らない第三者である事も重要な要件だったと思う。もしどちらかと知り合いだとしたら味方である事を要求されただろう。あくまでも第三者でいられるというのは仲裁にとってとても重要な位置づけなのだ。
結論としては「意思の橋渡し、またはその切断をするという事が、場のアドバイザーが唯一出来る事なのだ」という事を今回の案件で学んだ。
これは哲学者千葉雅也の提示する概念「意味がない無意味」にも通じる事なのだが、人は反射的に対応いなければならなくなった時とにかく鋭敏に思考し続けてしまい、より多くの意味(今回の喧嘩の場合相手が悪である理由や自分の正しさの理由など)を生産し続ける。
なのでその新しく生産され続ける意味を止めて、その場にとって最も重要な事、今回の場合なら喧嘩をやめてお互い家に帰るという事、を促すのが仲裁人にとって大事な事なのだ。
それが実践的に出来た事、あるいはファシリテーションというのはこういう事なのかも、と気づけたことは大いに収穫であった。
万事、無駄な事はない。というか無駄にしない事だね。
まとめ
■第三者であること。または第三者という立場を崩さない。
■どちらかの味方にならない。裁定は下さない。
■とにかく双方の話を聞く
■差別発言や蒸し返しなどはちゃんと諫める
■仲裁という目的を忘れない
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