ウーマン・スナイパー 《一章》(1) [期間限定 1/30 本文無料]
ここに一枚の写真があります。これは写ルンです(使い切りのカメラ)で撮影して、写真屋さんでプリントしてもらったものです。あたしはプリント写真の光沢紙そのものが好きです。光沢紙の表面ってエロいと思いませんか?でもそれについては今は横に置いておきます。本題はこの写真に写るこの男です。この男、水倉新造という名前をお持ちの方でして、行きつけのBARの常連でした。仲間内では「スイさん」とか「スイゾウ」とか呼ばれていました。元々「シンゾウさん」と呼んでいたのですが、リベラルな水倉さんは「首相と同じに聞こえるからその呼び名はやめろ」と本気で怒っていたので、あたしが「スイさん」というあだ名をつけてあげました。ネーミングセンスには自信があるんですよ。いいでしょ。でもスイさんと呼んでいたのはあたしと二〇代の秀太くらいで、他のみんなはスイゾウ呼ばわりしていました。
スイさんの詳しい年齢は知りませんが、たぶん五十代だと思います。というかスイさんについて知っている事はビール党でタバコはウィンストンで、ニューヨークヤンキースの野球帽をかぶっていて、あとはインテリなところ位なものです。話し方に東北訛りがあるから出身はたぶん北関東から東北あたりだと思います。仕事は何をしているかとか、結婚している(していた)とか、子供がいるのかどうかとかまったく知りません。そういう話題になると急に話の輪から離れてスマホのチェックをしていました。自分のパーソナルについて知られることに強い警戒心を抱いているようでした。あたしはそんなスイさんのミステリアスな部分が好きでした。
ブツブツつぶやきだしたら、それは酔いが回ってきた証拠でした。スイさんの話は彼の人生で蓄積されたものが漏れ出た言葉でした。少なくともあたしはそう思っていました。そんなスイさんの本性が出てくるのを毎度心待ちにしているあまり、なかなか帰れず深夜までダラダラ飲んでしまうのです。呂律の怪しいスイさんは本当に可愛らしいのですよ。一度そんなスイさんの写真が撮りたくてスマホを向けた事があるのですが「やめろ。俺は写真に撮られるのが嫌いなんだ」とレンズを遮られました。
「おれは何も残せなかったし、もう何も残したくない。空気のように死んでいきたいんだ」
スイさんについてあたしが分かったことはスイさんが男性である事くらいな気がします。その奥にある何かを知るためには、あたし自身を彼に挿入していくしかないのかもしれません。彼と寝たいというのではありません。私を受け入れてくれる為に何をしたらいいのか。彼が閉じている扉をこじ開ける為の鍵は何なのか。そればかりを考えると胸がチクチクしました。意識をすればする程に味覚とか嗅覚が鈍くなっていました。仕事に支障はありませんでしたが、それ以外何も手につかない。写真もすっかりやめていました。これはまずいと思いましたが、どうしようもなかった。これはつまり、アレなんですかね。
時が経つのは早いもので秋になりました。あたしはいつものようにドラッグストアの品出しをしていました。振り返れば今年はとても変な一年でした。二月から世界中に広がった新型コロナウイルスの影響で春先はあたしのお店でもマスクが品薄になりました。マスクを求めて長蛇の列が出るとか、カップ麺の棚が空になるとかは来年には笑い話になるのでしょうか。トイレットペーパーも潤沢にありますよ。品薄を客から詰め寄られるのももはや懐かしいです。まだ世の中は混乱をしているようですが、この街はニュースで喧伝されているよりは幾分落ち着いている気がします。でも昼間から酔っぱらっている集団を最近は見ません。車止めで休憩するおじいさんもいなくなりました。オープンと共に缶チューハイを買いに来ていたあの子は引っ越しされてしまったのでしょうか。あたしが撮影対象にしていた「形容しがたい愛おしさ」が一掃されてしまったかのようです。若いカップルが駅に向かって歩いていました。ジャージの男とスーツの女。遅い朝、男が女を見送りに来たのでしょう。薄いため息のようなベールに包まれている。昨晩から朝にかけて幾度かの交接の燃えカスが歩いているようです。普段のあたしなら奴らをカメラで射貫くはずです。殺意に近い鋭さでレンズをロックオンし狙撃するような精度でシャッターを切るのが流儀です。でもそういう気になれない。駅の中に消えていく二人をただ見送り仕事の続きに戻りました。
ふと思い出したのですが、ある時期からBARでスイさんと遭遇しなくなりました。元々何をしている人なのかわからなかったし、そもそも常連だけど毎晩必ずいる人ではなかったです。もしかしたら酔った勢いで失礼なこと言ってしまって嫌われてしまったのかもしれない。そんな妄想が膨らんで本当に辛い時期がありましたが、そんなことも忘れていました。いや、忘れよう、忘れようと念仏のように唱えているうちに考えることを放棄していたのです。自ら去勢した身体は感動すら忘れていました。それに準ずるようにドラッグストアの仕事に苦痛が無くなりました。感動が無くなるというのは不満も無くなるということなのですね、きっと。
スマホが振動しました。通知があったことがズボンのポケットから身体を通じて伝わってきました。忘れていたことを思い出すとよく起こる事ですね。スイさんからのメールでした。
「今夜空いてたら一杯いかがですか」
あたしは即座に「いいですよ」と返信しました。
(つづく)
[ 絵: 大塚明]
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