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【小説】二一二〇〈「六十度」#11〉

 唇が切れた。ティッシュで押さえたら裂傷の形で赤く染まった。たったこれだけの傷口なのにピリピリ痛い。こんな傷、数日したら忘れるのは分かっている。だけど今は仕事の集中力を削ぐのには充分すぎる。空気が乾燥しているのだろう。ここは高度なAIで環境管理されているため空調について考える事は普段はない。でも稀にこういう小さなエラーは起こる。エラーが出た時はマザーコンピューターにトラブル報告を行う義務がある。このシステムが社会に実装されて長いがAIは万能ではない。先人の知恵は偉大だが人工知能技術はまだまだ幼年期を抜けたくらいの段階なんじゃないだろうか。小さなことでも学習に寄与する事で未来に意義を残せる。端末で「唇が切れた」と打ち出して送信した。

 仕事を中断してコーヒーを入れた。どんなに進歩してもコーヒーくらいは自分で淹れる。コーヒーの甘い香りが好きだ。リビングのカーテンを全開にすると、光が差し込んだ。僕には季節感という概念は無い。ディスプレイの日付だけが全てだ。一月二十五日なので冬。外に出る事が無いので寒暖とは無縁なのだ。

 非接触型社会以降に僕は生まれた。以前読んだ本によれば一〇〇年ほど前に新型ウイルスが世界に蔓延したのを機に人類は進化した。当時SNSによって価値観が転換した。「感染症の世紀」の始まりだ。各国社会体制が変わり、大衆による一般意思が平和を実現した偉大な出来事であると誇らしげに綴られていた。

 冷蔵庫から牛乳を取り出し半分飲んだコーヒーに注いだ。僕は牛というものを実際に見た事が無い。生物の授業で画像は見たことがある。経済動物として管理され食肉と乳を供給する存在だと教えられた。

 ソファーでコーヒーを飲みつつ端末に目を落とす。天気予報と共に人口推計が報じられる。安定的に新生児が生まれ老人は死ぬ。総人口は微増。死因は主に老衰。次いで病死。ここ数年変わっていない。変わらない日常は続いている。世界は平和なようだ。

 宅配ボックスに新しいシーツが届いた。定期的に新しいのが届く。古いのは回収ボックスに入れれば持って行ってくれる。食べ物やコーヒー、ポルノグラフィなんかも同様に届く。

 シーツをボックスから回収すると底に何かがあった。紙の本だ。そういうものが存在したことは知ってはいたが見るのは初めてだった。こんな非合理なものは今の時代には存在しない。一部研究者の間では取引されているのかもしれないが、そんなものが何故うちに届いたのかわからない。間違えて届いたのだろうか。マザコンに報告しなければいけない。そう思ったのだが中身への興味がふつふつと湧いてきた。中身を見てから返却すれば良い。シーツをベッドに放り投げて、温めなおしたコーヒを持って仕事部屋に入った。デスクに座って本を開く。紙の切れ端がヒラリと落ちた。拾い上げると手書きの文字が書いてある。


「西を見ろ」


 どういう事なのか。誰に向けて送付されたものなのか。そして西には何があるのか。あれ?西ってどっちだろう。方角の概念が自分の中に存在しない事に驚いた。

 本は日本人哲学者が書いたもののようだ。書名と作者名は丁寧に塗りつぶされている。衝動に駆られ本を開いた。人間の豊かさについて書かれていた。豊かさや文化は誤解や誤読の中から産出されるという事や、観光客として出かける事の重要性などが書かれていた。僕は仕事のノルマをすっかり忘れて読みふけった。この本はSFなのか。作者は何者なのか。いつ書かれたものなのか。そしてメモにあった「西」には一体何があるのだろうか。扉の向こうに出ればそれが分かるのだろうか。

 何時間経ったのだろう。そういえば腹が減った。呼び出しベルが鳴った。タイミングよく食事が届いたようだ。さっきの紙切れを挟んで本を閉じる。今日のメニューは牛肉のピラフ。いつものようにレンジで温めなおして食べる。うまい。そういえば読書で仕事が滞っている。その事はマザコンに捕捉されているのだろうな。だとしたら何かしらのペナルティを課せられるかもしれない。やばいな。


 ピピピピピピ。


 唐突な着信音に身体がビクッとなった。食事の手を止め端末を確認すると、マザコンからメールが届いていた。まずい。当局のメールは開封が義務付けられている。恐る恐るメールのアイコンをクリックする。

《おめでとうございます。あなたの子供が生まれました。三二五〇グラム。正常な男の子です。命名希望の方は以下のフォームに新生児の名前を記入し、一週間以内に返信してください》

 一年半前に採取した精液から僕の子供が生まれたという連絡だ。これで社会的な役割の一つを達成できた。これを達成できるかどうかで生存意義のようなものが問われる。自殺者の多くは子を作れなかった四〇代~五〇代が多いとされている。良かった。とてもめでたい。

 せっかくなので名前を付けよう。僕が生きた証を残そう。

 僕はネット検索で名前辞典を開いた。

(小説サークル「六十度」2021年3月号掲載)

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