東京芸人逃避行 ヤーレンズ 出井 隼之介
2019年4月15日。
この日僕はお笑いコンビ「ヤーレンズ」の出井さんと遊んだ。
出井さんは先輩にあたる。
ケイダッシュステージという事務所に所属する漫才師だ。
「芸人と遊んだことを書きたいのです。良ければ付き合ってくれないでしょうか」
「良いよ。タケイ住んでるところどこだっけ?…それなら下北にしよう、行きたい喫茶店がある」
失礼な願いだと思う。
特にメリットも無いであろうこの願いを快く了承してくれ、僕の住んでいる場所から近い街を提案してくれた。
この文章を書くにあたって一番最初に頭に浮かんだ人物が出井さんである。
事務所も違い、芸歴も違えば最近はライブも一緒になることが少なくなった。
しかし会えばこうして優しい。
最初のやり取りで間違いではなかったなと思った。
当日は12時に下北沢に待ち合わせた。
東京に来て約10年が経った。
最初に下北沢に来た時とはだいぶ変わった。駅の入口だけで5回は変わったのではないだろうか。
開かずの踏切はそれなりに開くようになり、南口は消え立派な中央口は小田急と井の頭を分けた。
天候に恵まれ駅前のベンチに座り出井さんを待つが、日差しが強くて影の方に移動した。
隣ではイヤホンをした女性がブツブツ言っている。
電話か聴いてる曲を口ずさんでいるのかと思ったが、どうやらただ独り言を言っているようだった。4月。暖かくなった。
時間を20分程過ぎて出井さんは自転車でやって来た。
APCのパーカーにスキニーデニム、靴はエイプとDr.マーチン、リュックはMHL.だったか。中には黒いシャツを着ていて少し暑そうだった。
「今日はありがとうございます。特別に何かをするって訳ではないので、一緒にプラプラ出来ればなと思ってます」
「じゃあ飯食い行こう。この辺詳しいだろ」
「美味いカレー屋ありますよ。スープカレーなんですけどどうでし」
「カレー好きじゃないな。他が良いな、他。あるだろ、他。カレーじゃないところ。どっかないのか、カレー以外で。カレー以外な」
僕らは下北沢の一番街を進んだ先にある「とん水」という店にした。
老夫婦二人が切り盛りするこの店は45年以上続いており、
定食のメニュー数も多く、一品料理も多くある。
米は釜戸で焚いており全部美味い。飯屋でおススメはあるかと聞かれればよくこの店を挙げる。
数あるメニューから出井さんはとんかつ定食を頼み、僕はキスフライ定食を頼んだ。
僕は出井さんと会う時に絶対着て来ようと思っていた服を着て来た。
それはナイロンジャケットなのであるが、昨今流行りのヴィンテージのアディダスやナイキなどの物ではなく、
ムエタイの道場がオリジナルで作ったナイロンジャケットだ。
前面にボクシンググローブのワッペンが張り付けられており、
背面には戦う選手がこれもまたワッペンで大きく張り付けられている。
出井さんは格闘技をこよなく愛している。自身のSNSでもよく挙げる程だ。
以前会った時キックボクシングのTシャツを着ており、それが格好良くて羨ましかった。
高円寺で同じものを見付けて買おうか悩んだが手持ちが無かったのか、全く同じものを買うことに躊躇ったのか、今は覚えていないがそのまま見逃した。
そうして時間が経ってフリーマーケットでこのナイロンジャケットを見付け、すぐに購入した。
僕はジャケットを脱いでそれを出井さんに1から説明した。
きっと一緒にこの喜びを共有してくれるだろと踏んだ。
「ふーん」
思っていた反応と違った。
僕らは店を出て出井さんが行きたいと言っていた喫茶店に向かった。
嬉しい事にたまたま店は近かった。
「珈琲屋 うず」は下北沢の一番街商店街を抜けた住宅街の一角にあった。
恵比寿から移転し、2018年の9月に下北沢で営業を始めたらしい。
出井さんは恵比寿で営業をしていた時に訪れ、その時に雰囲気に心奪われたと言う。
そして下北沢に移転したことを知り、今日来たのだ。
入ってみると店内はこじんまりとしており、コーヒーの良い香りで溢れていた。
カウンター内のレコードプレイヤーからは流れているのはフランクシナトラだろうか。マイウェイが流れていた。
コーヒーは気分に合わせて淹れてくれるらしく、出井さんは僕の分も注文してくれた。
ファストフード店で安くコーヒーを飲む拘りの無い僕は、全てやってくれる出井さんがありがたかった。
エスコートしてくれる男性が好きだと言う女性も、きっとこういう気持ちなのだろうか。
時間を掛けて丁寧に淹れたコーヒーは、店の雰囲気も相まってとても美味しかった。
一人では来ることが無いであろう場所に人と来るのは楽しい。素敵な発見がある。
きっとまたこの雰囲気を味わいに一人でも来るだろう。
ふと出井さんの置いた携帯電話に目を落とした。
わらいのお兄さん
みんなのたかみちお兄さん
活動:保育園でのお楽しみ会 など
これだけは店の雰囲気に合っていなかった。
充分に楽しみ、僕らは店を出た。
興奮した出井さんは
「良い。凄く良い。凄く良かった」
とコーヒー屋を撮る鬼と化していた。閑静な住宅街にシャッター音が鳴り響いた。
余程良かったのだろう、自然と笑みがこぼれていた。
笑みがこぼれるという表現では足りなかった。
溢れ出る嬉しさを堪え切れず、店の前で爆笑していた。少年のようだった。
それからは少し古着屋を巡り別れた。
この後はライブだと言う。
「今日はありがとうございました」
「後輩と遊ぶこと増やそうと思ってたから嬉しかったよ。こちらこそありがとう、またな」
そう言って自転車に乗って颯爽と新宿のライブ会場に向かう出井さんは、
どこまでも優しかった。
東京芸人逃避行。
嫌な事や辛いことがあってどうしようもない時、気分を変えたい時。
少し遠出する、小旅行に行く、という中の一つに芸人のライブを見に行くという選択肢が増えれば。
そしてこの文がその芸人を観に行くキッカケになればと思う。