見出し画像

ノンバーバルコミュニケーションとテレパシー〜情熱中国大陸〜

時々日本に戻って来ると、巨大な「誤魔化し平和」のような違和感を強く感じる。それと圧倒的な「無関心」社会。
柔らかく目隠しされた人々が、目隠しを外そうとしないばかりか、わざわざ耳栓までをし、見えない聞こえない空間を自ら作り出し、そのシェルターの中に住んでいる感じ。そこだけ快適ならいい。もっと言えば、その空間の人にだけ合った、個別に切取られた情報が上手に発信されていて、それを選べる世の中になっている。そんな強烈な違和感を私は感じる。

誰にでも一人になりたい時はあるし、隠れ家、書斎、秘密基地は当然必要だ。お気に入りのバーや喫茶店、無心に打ち込む趣味等、一人で居る時間はとても大切だ。私もこれがないと死んでしまう。

問題は、日常生活全てをこの空間のようにしてしまい、人とまともにコミュニケーションをとらない人が、沢山居るという事だ。

いつもイライラしている人、

突然切れる人、

何も言わず黙って逃げる人、

人の話を全く聞かない人、

バカは死ねばいいと言う人、

などなど。
これらの状況は、本来機能していなければならない、様々な人と人とのコミュニケーションが欠如してしまっている為に起こっている事ではないだろうか?

人との接触を極力避け、もはや電話さえも良しとしない風潮。相手が目の前に居る時でさえ、メールとチャット。
このような「ノンバーバルコミュニケーション」排除の大行進には、本当に恐怖さえ感じる。「証拠が残らないから」とか言う、バカげた理由を本気で挙げる人が沢山いる。これは、本当に異常な状況であると思う。

「ノンバーバルコミュニケーション」とは、非言語コミュニケーションの事で、言語以外、つまり表情、声、動作、雰囲気、などの部分を指し、人と人とのコミュニケーションの相当部分を占めると言われている。

中国でも人との接触を避けるこのような状況は確かにある事はあるが、日本ほどではない。中国では自己主張は当然の事であり、別に悪い事でもなんでもない。

日本人に比べ圧倒的に主張や我が強く、利益やお金にとても敏感である為、すぐにぶつかる事になる。職場でも街中でも、会っていようが、電話であろうが、曖昧なまま放っておかず、バーバル、ノンバーバル両方を全力で駆使し、大きな声でぶつかりあい、相手を見て主張し、自己の利益と安全を確保するために必死で相手と「闘う」。

闘う、というのは大袈裟な表現で、実際の中国人にとってのニュアンスとしては適切ではない。実際には「自分の意見主張をただはっきり言っているだけ」であるが、日本人から見ると、殴り合いこそしてはいないものの、どこからどう見ても「喧嘩」しているようにしか見えない。

あれだけ目を吊り上げ大声で「喧嘩」していたと思ったら、1分後にはケロっと「超仲良し❤️」に戻っている。それを見て、「え、ええーー!?!?」と言って、とてもびっくりしている日本人を、私は大勢見てきた(笑)。

きちんとお互い主張し、「コミュニケーション」を取れればそれでOK、ぶつかっていた事自体は、悪い事でもなんでもないし、ただの事象だけであって、根に持つ必要もない。とてもさっぱりして見えるのである。そして一瞬にして仲良しに戻るのは、もの凄く子どもっぽくもあり、また同時にもの凄く大人にも見える。

実は、バーバル、ノンバーバル、両方を全力で駆使し、自分の主張を押し、その落し所がちゃんと見つかった、だけの話で、当然の結果がそこにあるだけなのである。

因みに、幼児はノンバーバルコミュニケーションの達人である。言語が未発達の為、バーバルコミュニケーションよりも大きな領域を占める、ノンバーバルコミュニケーションの為のアンテナが発達し、言語以外の全ての感覚をフルに使って判断し、感じ、コミュニケーションを取ろうとしていると思われる。

乳幼児が普通に行なっていると言われる、霊的存在との交流や、大人には見えないものが幼児には見えている、というのは事実であろう。
これらに対して大人はとにかく、バーバル「言語」を駆使し、言葉ばかりに囚われているせいで、全体が良く見えていない状況に陥っている事が多い。

●子供には感じられているが、大人には感じられていない事

●子供には見えているが、大人には見えていないもの

●子供には聞こえているが、大人には聞こえていないもの

このような事が実は山ほどあるのである。
子供の喧嘩に親がシャシャリ出て、ろくな事にならないのも、実はこういった事が原因の一部を成していると思う。

   私は、子供となるべく一緒に居る時間を意図的に作るようにしている。近所の子供、お茶屋の子供、売店の子供、工場の工員さんの子供、電車の中の子供、友人の孫、とにかく幼児、子供たちと触れ合う時間を意識して作るようにしている。何故かというと、子供に教えられる事が結構あるし、ノンバーバルコミュニケーションを忘れないようにする為の訓練にもなる。そして何より「楽しい」からである。

いわゆる「テレパシー」と呼ばれるものも、これと同じ部類の事であると思う。伝えたい「何か」が自然と身体から滲み出る、もしくは、無意識な状態であっても何らかのメッセージを「伝えよう」とか「心をハグしよう」とする周波数が飛び交って、自然とコミュケーションが発生しているのではないだろうかと思う。

例えば「好き」「楽しいよね」「こっちに来て」などというメッセージもテレパシーとして飛び交っていると考えられる。

音楽もその一種の形かと思う。音楽が、周波数としてあるいはその組み合わせとして、どう人間の脳や心に影響を与えているのか、具体的に観察するのは難しい事ではあるが、古来よりずっと様々な形で人類と共にあるものである事から、人にとって必要なものである事は間違いないであろう。

音楽の環境の中で培ってきた感性、無数にある音の周波数と組み合わせを聴き分け続け、その表現方法を身に付けた技術者が、音楽家、ミュージシャンと呼ばれる人達である。

色や形や匂いを音で表現し、感情やマインドをセットして、メッセージとして伝える術を持ったミュージシャンは、それぞれが独自の楽器や方法や声や技術で、それを伝える。

職業としているいないに関わらず、ジャンルや国も問わず、人間が伝えたい何かがあるからこそ音楽もあるのであろう。

 意識的にテレパシーを使い、人や動物を呼び寄せる事をやっている人も居るし、無意識下で、異種間のコミュニケーションを発生させている人も居ると思う。意識的にテレパシーを飛ばしている人の脳内は、そのメッセージについて、意識してからテレパシーを送るのだろうか?もし、テレパシーを送るぞ!と決めてテレパシーを飛ばしているのであれば、テレパシーに乗せて発射する前に、そのマインドセットが脳内でなされ、それを気のようなものに乗せて、ハーッ!と一瞬で発射しているのだろうか?それとも所謂オーラと言われるようなものを発しているのだろうか?そもそも話してもいないのに目を合わせただけで伝わったり、分かったり、逆に伝えようとしてもいない相手が、それを感じてしまったりする、というのは一体どういう事なのだろうか?

我々は脳内で起きている事を、今のところ観察する事は出来ないが、自分の意思や感覚といったものをどの程度、客観的に理解しているのだろうか?自分の本当の意識と、自分から発するテレパシーや言動は、どれ程のシンクロ率を保っているだろうか?シンクロ率が低い、若しくは嘘であっても、自分の脳を意識的に騙し、マインドセットしてそれを発射させる事などが出来たりするものなのだろうか? 自動WIFI接続のように、開いたり閉じたりしているのか?レセプター側のレンジやアンテナの種類などは選んでいるのか、一瞬で何に反応して、どうやってペアリングし通信すると決まるのか、等々、考えれば考えるほど興味は尽きない。

テレパシーを使える人間になるという事よりも、マインドセット、あるいは簡単に言うならば「心」を持って、人と接しようとしているかどうか、が重要な事なのではないだろうかと私は思う。

我々は、他者とコミュニケーションする上で、技術的な方法論やマニュアルを探す事よりも、自分の中にどんな感覚、マインドがあるのかを、まず意識し自分の「心」と向き合うべきである。その上で自分は他者とどんなコミュニケーションを望んでいるのか、何をテレパシーに乗せたいのか(伝えたいのか)を自分の中にまず見つける必要があるのではないだろうか。それをしないで、ネットにある受け売りの情報だけを使ってコミュニケーションをしているから、何かおかしなことになっているのではないだろうか?

とにかく、人と人が会って、触れ合い、顔を見て、お互い「何か」を発信受信しあい、何かを感じあいながら、話し、向き合う事、この至って当たり前で、超アナログな事を、いかに便利で進化した世の中になろうとも、私は大切にしていきたいと思う。実はここにこそ人間の本当の未来、将来もあるのではないかと思う。
そして「人間」という文字は、そういう意味でもこのように書くのだろう。

つづく

いいなと思ったら応援しよう!